【神道つれづれ 7】 

※H23.11 発行「社報」 119号より

 

神道では、しばしば話題なっている難しい解釈の一つに、「言霊」があります。

神社界では、「言霊」の定義が微妙で、神話の神々が言われたことが現実になることから、漠然と、言葉の持つ力の事を指していたように思います。

私の知る古神道では、「言霊」は、無意識のうちに神々から発せられる言葉。

神と人を繫ぐ 橋渡しの役割を果たしているように、私は解釈しています。

これを証明するものは、実は何もありません。

 

ただ、自分の気づかない未知なることを、気づかせてもらえるものであることは、

確かな記憶として、私の中にあります。『古事記』では、仲哀天皇の御代の神がかりの祭祀の様子を記した話に伺えるのではないかと思っています。

 

当神社が、神社本庁に所属しないのは、古神道の流れも大事にしたいと思っているため。その為に、風評被害もありましたが、細々と祭祀を続けている次第です。

私は、大学院在学中、神社本庁でバイトをさせていただいたことがありました。その際、神社本庁所属の神社にすべきか否かを、上司に相談したことがあります。

いろいろと話を聞いていただき、単立宗教法人の方が、制約がなく祭祀に専念できるから、神社建立の経緯を鑑み、単立宗教法人のまま、現在に至っております。

 

その後の私は、神社関係分野に進むこともなく、自然や森に夢中になっています。私を取り巻く境遇も原因の一つですが、昭和64年の正月大祭で、こんな言霊を頂きました。

「拝んでも 神はその場に姿を見せぬ 行う種を蒔けば現る」

神職としての私ではなく、世の中の為に役立つことをし続けることが、本当の神道の在り方。本来の神職の姿だと、自分なりに解釈したからなのです。

 

『岩神が呼んでいる』(有)マシヤマ印刷。も、その過程の一つ。

『ESTIMATION すてきな心を育てるために』文芸社も、その過程の中で、生まれたものです。私の解釈通りの言霊が確かに存在するならば、『岩神が呼んでいる』も『ESTIMATION』も、実は、言霊のなせる技。構成も考えず、ただ想いが浮かんでくるままに綴っただけなのです。

そこには、真実を伝えたい。教育の場をよくしたいという想いだけ。

そこには、一生懸命に取り組みながら、苦しんでいる人の姿を見て、何とかそのことを伝えたいという一心だけでした。

 

自分自身の人生を振り返ると、古神道という特別な家庭に生まれ、大蔵嶽という磐座のある神山に、幼い頃から登り、随分不思議な体験ばかりしてきました。

神社界からのバッシングにも、周囲の目にも、笑顔で対応できたことは、大蔵嶽の神様や自然に守っていただいていたからこそ。

でも、流石に、時には、この境遇が辛くて、逃げ出したいこともありました。

普通の家庭に生まれていれば、悩むこともなく、実力も認められていたかもしれないと思った事もありました。

 

最近、自分の生い立ちを変えることはできない。離れようとしても離れさせてもらえない運命を、全身全霊で受け入れて、自分らしく生きる方法を考える方がいいと思うようになりました。

嫁ぎ先の事も併せて、私に関わってくださる人々も幸せになる方法を考えています。

きっと、自然が応援してくれる。大蔵嶽の神様も、力を貸して下さると、信じています。

 

少し長くなりますが、最後に、私が学生時代、初めて神職修行をした明治神宮のおみくじを紹介しようと思います。このおみくじは、明治天皇と昭憲皇后の御歌を採用されており、勇気づけられたものです。私自身、言霊だと感じ有難く思ったものです。

 

「人しれず 思うこころのよしあしも 照らし分くらむ 天地のかみ」

「さまざまの うきふしを経て 呉竹の 世にすぐれたる 人とこそなれ」

「器には したがひながら いはがねも とほすは 水のちからなりけり」

「おほぞらに そびえてみゆる たかねにも 登れば のぼる道はありけり」

 

歌が生まれる瞬間、言霊が働くことがあります。ありがとうございました。