父とはずっと折り合いが悪かった。

母の語るところによると、父は若い頃にお金で苦労したらしく、そのことが人格形成に影響を及ぼしたようである。

 

父は僕と性格や考え方がかなり違うタイプで、わかり合えた記憶があまりないドクロ

 

またややこしいことに、母がよく「父のせいで自分は不幸」のようなことを繰り返し口にする人だったこともあり、僕は「父のような男にはならない」と思い込むようになった過程があった。

「父のような男」とは「女性(母)の話を聴かない、気持ちを理解しようとしない男性」である。

 

父も母も自他否定が強いタイプだったので、お互いの「わかってほしい」がぶつかり合い、ケンカは日常茶飯事だったショック

そして、お互いが相手のいないところで「もう10年若かったら別れている」とのたまう始末ハートブレイク

 

離婚経験のある僕から見ると「離婚する勇気がなかっただけじゃないか」と思うのだが、共依存バリバリの夫婦だったことは間違いない。

 

少しそれてしまったが、何かと「一般常識」を重んじる?父と、あまり一般的でなかった僕(例えばカウンセリングに興味を持ち、仕事につなげてる男性は世間的には少数派である)はよくぶつかり合い「この人とは理解しあうなんてことはないだろう」と早い段階で思うに至った。

 

印象的な思い出がある。僕が25歳くらいの時。

僕や弟が好きなお笑い番組を見ていると「またしょーもないもん見て」と舌打ちとともに吐き捨てるように言うのが父の口ぐせのひとつだった。

 

ある日、父がお気に入りの時代劇を見ていたので「一回、言われた方の気持ちを理解してもらおう」と考え、「またしょーもないテレビ見てる」と言ってやったら、父が烈火のごとく怒りだし、僕の目の前まで威圧的に向かって来たので、僕も負けじと胸を突き出したムキー

 

見かねた母が「謝りなさい。気持ちはわかるが、あんたが悪い」と言われ、父の高血圧も気になったので、とりあえず頭を下げた。

その瞬間「この家には僕の居場所がない」と思うようになり、直後にひとり暮らしを始めた

 

父に面と向かってたてついたのは初めての経験だった。

十代に反抗期を迎えなかった僕の、遅れた反抗期だった。

 

父にやさしい面(弱さと隣り合わせだが)があることを知るのは、その後のことである。

 

そんな父は肺がんを患い、亡くなるまで何度か入院・手術を繰り返す。

と言っても、最初の肺がんからは10年以上生存した人だった。

 

晩年の入院時に和解の時は訪れた。

 

がんもだいぶ進んでからは、呼吸するのもしんどい時期があったので、父がしゃべる時には父の口の近くに耳を寄せ、全身で父の言わんとしていることを理解しようとする自分がいた。

 

父の言うことを理解できただけで、そのことが嬉しかった。コミュニケーションの原点はここにあるんだと、父から学んだ。

 

最後の入院の時だったかな。

その頃、僕は契約社員として”キャリアカウンセラー”職に就いていた。

父は古い人なので「なぜ正社員で仕事をしない。自分の好きなことを仕事にできるもんじゃない。職種なんて何でもいいから、正社員で仕事をしなさい」という考えで、何度もそう口にした。

 

僕は、それまでの経緯で「父には理解してもらえないだろう。価値観があまりにも違いすぎる。理解してもらえなくても、僕は僕の人生を歩む。」と考えていた。

 

ところが、ある日。

仕事帰りに入院先を訪れると父が言った。

「昨日、テレビでお前のような仕事をしている人の特集があって見た。少しわかったような気がする。今の時代、お前のような仕事が必要とされてるんやな。」

 

僕はビックリした。とにかく驚いたびっくり

そして嬉しかった汗

初めて父に認められた気がした。

初めて父とわかり合えた気がした。

 

(正確には、父が僕のことを理解してくれた)

そして、その気持ちを父に伝えた。

 

 

 

父は他界する直前に、僕に多くのことを教えてくれた。

 

絶望的にわかり合えないと思う相手でも、わかり合える瞬間が来ることがある。

 

非常に頑固な人であっても、人は変わることがある。

 

全身で話を聴くとはどういうことかを体験させてくれた。

 

そして、父とのわだかまりはなくなった。

 

これらのことはカウンセラーとして、人として大きな大きな経験であり僕の財産だ。

 

父が、最後に僕に残してくれたものである。

僕が父を思い出す時、こころの中の父はいつも笑っている。