私は生きている。

賢明な読者なら、もはや説明することはないと思うが、『豊穣の海』にその手掛かりは、書き記して置いた。

 

その中に、深海の奥底に蠢く甲殻類の囁きのごとく織り込んでおいた文意を読みこめば、私が何処に向かおうとしているか分かるはずだ。

 

私は生まれ変わったのだ。

 

魂は不滅である。

 

私は鮮烈な死を遂げた者しか与えられない名誉と勲章を得た。

 

目を閉じなさい。

 

盾の会の制服を着た凛々しい私の姿が鮮明に写し出されるはずだ。

 

その残像こそ、切磋琢磨して綴った小説のごとく、私が創り出した作品なのだ。私の生きた証が、一つの壮大な物語となり永遠に残されるのだ。

 

苦悩、恐れ、迷いなどの内側でくすぶっていたものが、すべて消え去り、昇華された。

 

もう、私の生きていた様を知る人もいまい。

 

人は死にやがて忘れ去られる。

 

しかし私は不滅であり、もはや象徴である。

 

私は、自ら書いた脚本を自ら演出し、そして完璧に演じ切った。

 

市ヶ谷の隊員たちのヤジも、腐った肉に湧いてきたウジ虫のような醜聞も、すべては計算尽くした筋書きの通りである。

 

そして、生まれ変わることも。

 

私の魂は、今ここにある。

 

その従者である肉体は、私の最も理想とした完璧なものを得ることが出来た。

 

もう、老婦人が衰えた皮膚と肉体を化粧と宝石で補うように、貧相な肉体に無理やり筋肉という着ぐるみを纏う必要はなくなった。

 

私は、全裸になって全身を鏡に映す。

 

ギリシャ彫刻のような肉体。

 

それは私の嗜好そのもの。

 

私は、鏡に映し出される自分の姿に魅了され、酔いしれる。

 

最早、虚構で着飾る必要はなくなった。

 

追い求めていた理想が現実になった。

 

私自身が、美の主体になりえた。

 

私は、それを望んでいたのだ。

 

私は純粋に、私を愛せるようになった。

 

肉体は精神をも変えた。

 

ただし、精神のみで、その神髄となっている魂は変わっていない。

 

だが、肉体によって、精神は純化され研ぎ澄まされた。

 

最早、コンプレックスに裏打ちされた脆弱な核心に重厚な鎧を纏わせずに負えなかった精神が、透き通る原石のように一体化して曇りがなくなり輝き始めた。

 

文体が変わった。

 

「文体は、その人の人格を現す」

 

かつての私の言葉だ。

 

まさにその通りだ。

 

私は、もう幾重にも技巧を極めた修飾語を重ねる必要は無くなった。

 

その肉体に合致した文体でよいのだ。

 

明朗で快活な文章を書く。

 

そこには、何の偽りもない。

 

心の赴くままに書き進めればよいのだ。何と心地よいことではないか。

 

草原を駆け巡るように文字を連ねれば良いだけなのだ。

 

文脈は、鼻歌のように自然に流れ出る。

 

これ程までに文章を書くことが楽しいと思ったことがない。

 

自由に空を飛び回る鳥たちのように、文章が書けるのだ。

 

もう、辛辣な批評家の顔色を窺いながら、文章を書かなくてもよいのだ。

 

今の私は、肩書という足かせにとらわれることは無い。

 

誰も私のこと知る人はいないのだ。

 

当然、愛読者と呼べる人たちはいない。

 

私は自由だ。

 

何を書いてもよいのだ。

 

生まれ変わった私は、次の100年、いや1000年に名を残すべく書き続けていく。