いろいろやらなきゃいけないコトはあるのに、なんとなくパソコンをつけて、なんとなくぶろぐ画面を開いてしまっているえぞおこじょです。
・・・仕事しろ、自分Σ\( ̄ー ̄;)
twitterに移行するかどうしようかと迷っていると以前書きましたが、その流れでSNSとはなんぞや、みたいな哲学的なコトを考えるようになってきています(←暑さのせいでおかしな方向に行ってますネ(汗))
その中で考えたコトは、ぶろぐとtwitterを分けて考える必要があるな、というコト。
あくまでtwitterはつぶやきであって、人と話をするためのSNSというワケではないはずです。というか、公開されているという時点でSNSの役割を果たしていない気がします。
友達の中には、もはやメールのようにtwitterを扱う人もいますが、これは大丈夫だろうかと不安に思ったりもします。
だって、つぶやきと言っても、結局は全世界に配信されているワケですから、テレビでぽろっとしゃべるのと、街中の道端でボソッとつぶやくのとをいっしょくたにして「ツイート」という言葉でくくってしまうのは、あまりに危険な気がするんです。
それに比べると、ぶろぐというのはまだそうした「テレビ的な」一面が残っているわけで、多少なりとも推敲して書くコトが多いと思います(←実際きちんとしているかどうかは別としてヽ(;´ω`)ノ)。
だから、別に「韓流がどうだ」とかいうツイートに対して過剰反応するのはどうなんだろうかという疑問もわいてきます。
本来の、「道端でボソッとつぶやく」のがツイートだと定義するならば、これにマスコミを含む日本人が寄ってたかってあーだこーだと意見を言うのはおかしいというコトになります。所詮単なるつぶやきですから。
だけど、ぶろぐ記事のように、「テレビでぽろっと失言する」のがツイートなんだとすると、このツイートが良いのかどうかは別として、発言する方もある程度身構えるというか、しっかり原稿を用意する必要があるのだと思います。
政治家さんの国会中継や答弁を見てると、質問者も回答者も、どちらも原稿を読みながら、あるいは資料を読みながら、忠実に発言をしているなぁという印象を持つコトがあります。たまに手元に紙がないなぁと思うと、その時には失言をしている時だったりもします。
「思想・良心の自由」とか「言論の自由」とか、憲法には自由という言葉がたくさんあるワケですが、どこまでが理解されるものなのか、非常に疑問に思うコトがあります。
「韓流ドラマはやめろ」という言葉が言論の自由にあたるのだろうか、「死ね」もアリなのか…
1つ確実なのは、頭の中で考えているコトについては絶対的に自由が保障されているというコトです。
言葉にしたりアクションにしたりしない限り、「また東北で地震が起きろ」とか「あいつ殺したい」とか頭の中で思うコトは、残念ながらそれを統制するコトはできません。
だからこそ、アクションにしないようにする自律神経というか、理性を持つ必要があるワケなんですネ。
数日前に「セシウムさん」なんていうテロップを出したという事件がありましたが、確かにテロップを放映したコト自体は悪いコトですし、絶対に許されないコトだとは思いますが、「そんなコトを考えること自体が人間としておかしい」なんていう批判の仕方は、うーん・・・と考えてしまいます。
だって、果たして本当にそうしたテロップの事件がなくても、東北のお米を日本国民全員が自信を持って食べるかどうかは疑問ですし。。。
震災直後にあれだけお米やらミネラルウォーターやらガソリンやら電池やらが消えてなくなったコトからすると、人間の本性は見えてしまってる気が・・・
たぶんインターネットが普及しだした頃からのコトだとは思うんですが、どうも人間のオモテとウラがはっきりしてきてしまっているなぁと思う時があります。社会との「表面上の付き合い」が上手になってきてしまっている反面、ウラの思想が過激化しているような気がしてならないのです。
人間って結局は自分のコトしか考えないんだろうなぁ、なんて思ったりもしました。
…話がなんかとんでもない方向に行ってしまってますが・・・「みんながtwitterしてるから僕も悩む」という僕自身もそうした"現代っ子"なのかもしれないです。