「本当の財産」とは何か

財産とは

いったい何を指すのでしょうか。

土地や建物、預金や株、目に見えるもの。

あるいは、資格や立場、名声といった

社会的なポジションを思い浮かべる方もいるかもしれません。

けれど、これらはいずれも、社会や制度、誰かの決めた「枠組み」によって定義されたものです。法律が変われば消えてしまうかもしれないし、災害や戦争によって一瞬で失われることもあります。

そう考えると「財産」とは本来、非常に不確かなものであるはずなのに

私たちは それに安心を重ね、豊かさを測ろうとしてしまいます。

果たしてそれは本当の安心になるのでしょうか。



そこで私はこう問い直してみたくなりました。

「自分自身の持つ、誰にも属さない、本当の財産とは何なのだろうか?」

…自分の内側を静かに眺めてみると、いくつか思い当たるものがあります。たとえば

これまでの経験。

それは成功に限らず、失敗や痛み、恥や涙を含んだかけがえのない積み重ねです。誰かに評価されなくても、自分の中でしっかりと根を張り生きる力の一部となっています。

また、信頼できる人との関係。

形式的なつながりではなく、

言葉にならない時間や記憶の中にある静かで深いつながり。これもまた他人の目には見えないけれど

たしかに存在する財産です。

さらに信念や価値観。

状況によって揺らぐこともありますが、それでもなお大切に持ち続けてきた「こうありたい」という思い。時にはそれが道しるべになることもあります。


このように見ていくと、本当の財産とは目には見えにくいけれど、自分の内側にしっかりと根を張ったものではないかと感じます。


---しかし、ここでまた別の疑問が生まれました。


「これらの“本当の財産”と思えるものにも、“価値”が含まれているのではないか?」




そうなのです。経験にせよ信念にせよ関係にせよ、

どこかで

「それは価値がある」

と、私たちは判断しています。

つまり、価値を見いだしているからこそ財産だと思えるのではないでしょうか。

けれど、

その「価値」とは何でしょう?

突き詰めれば、やはり社会的なポジションや他者との比較によって生まれているものではないでしょうか。

価値は絶対ではなく、常に「相対的な場」で変化してしまうものです。このことに気づいたとき、私はこう思うようになりました。

「財産と価値とは、別の場に属するものではないか?」

価値とは…他者や社会との関係の中で生まれる「評価」や「意味づけ」。

一方、

財産とは…たとえ誰からも評価されなくても、自分自身の深いところで息づいているもの。

つまり、価値は「比較の場」に属し、財産は「存在の場」に根ざすものなのかもしれません。



本当の財産とは他人の尺度では測れない

…自分の内側にある何か。

それは価値が生まれる前の静かな「在る」状態に、そっと横たわっているもの。その存在を思い出すとき私たちはたとえ何も所有していなかったとしても…どこか安心できるのではないでしょうか?

そして、それこそが──今、この時代にこそ、もう一度見つめ直すべき「本当の豊かさ」なのかもしれないと、私は感じています。