一話完結小説 Vol.1
八月三十日、晴れ。人生は曇りのち雨。
「ごめん、隼人。今日さ、おばあちゃんの見舞いに行ってもらっていいかな。私は午後二時に行くって伝えといてくれる? 午前中は引っ越しの後片付けで忙しくていけないのよ」
寝起きの隼人に姉の凛が言う。隼人は頷いた。朝から億劫な事を引き受けたと頷いた自分に疑問を抱く。いつもは午前十時を回っても起きない隼人だったが今日は午前六時に目を覚まし、携帯の時間を確認するや否や、もう一度寝ようと布団にくるまったが、何度寝ようと試みても、もう一度寝ることはできなかった。
隼人の祖母は先生によると、脳がかなり萎縮していて、もう何があってもおかしく無いという状態だった。熱が出たら抗生剤、足が痛ければシップ、対処療法しか無いと言われている。
祖父が死んだとき、祖母が寂しそうな顔で祖父を眺めていたのを思い出す。その顔を見て隼人は半年もの間、一緒の部屋で祖母と寝ていた。
「そろそろ婆さんも危ないな」とか「おっ、今日は活きがいいな」とかブラックジョークを言いながら、祖母と一緒に過ごした。その時、祖母に言われた事を思い出す。
「あんたも人生長いからね、嫌な事もこれからたくさんあるけれど、一生懸命生きていくんだよ。生きていればいいからね。私もそんなに長くはないからね。仕事、結婚、大変なんだなあ。私も色々あったねえ」
「ばあちゃん、人生ってなんだろうな」隼人は呟く。もう十年以上も前に言われたことを隼人は考える。
隼人は、ここ最近はそういう事を考える事が多くなったと感じている。朝起きて仕事にいき、繰り返しの毎日に疑問を抱く。自分は一体何になるのだろうか。隼人はサラリーマンという響きが嫌でスーツなんて絶対着ないと考えていた若い頃が滑稽に思えて仕方なかった。現実はスーツを着て得意先で頭を下げて、時にやりがいを感じて、時に何もかもすっぽかして新しい事を始めようと考えたりしている。心は空中を彷徨っているのではないかと感じる程に隼人は自分の人生に疑問を抱く日々が続いていた。
「じゃあ、俺いくね。早くでないと混むんだよなあ」
「いってらっしゃい、あ、看護婦の方にも言っといてくれる。私が二時に行くこと」
「あいよ」
隼人は車のエンジンをかけてため息をついた。社内のデジタル時計は午前七時四十八分を表示している。
病院までは車で十分くらいで、仙台駅方面のため、朝は混雑している。渋滞にならない時間という事で姉には七時半くらいに出ればちょうどいいからと隼人は言われていた。信号が赤から青に、慌ただしく走る車、制服を着て自転車を漕ぐ高校生、自分の横を通り過ぎて行く原付。みんなそれぞれの人生を生きているのだろうなあと感じながら隼人は病院へ向かった。
病院に着くと、入口に看護婦が来る人来る人に挨拶をしておじぎをしている。「病院ってこんなだっけか」と隼人は思いながらエレベーターへと直行する。
「七階の西病棟、ナースステーションを曲がってすぐの「HCU」と書いてある部屋」隼人は呟きながら、『田尻 泰子」と書いてある部屋へ入る。
「はあ~い、元気かい」隼人が部屋を開けるなり祖母に言う。
祖母はベッドから起き上がり「おお、お前か」と言った。見ないうちに顔が変わったなと隼人は思った。つい最近まで祖母は化粧をして、近所の人と旅行、ゲートボールなどをして八十歳になっても元気な人だなあと家族は関心していたくらいだった。
「姉ちゃんは二時に来るって、どう、体調の方は」
「全然へいきだよ、それにしてもね、携帯やら財布やら全部もっていくもんだから落ち着かなくてね。お姉ちゃんに言って頂戴。携帯くらい返しなさいってさ、まだ私もそんなにボケてないんだから」
「ははは、そうだね。でも、ばあちゃんね、この間、わざわざ二階から降りて来て、外に出て行ってさ、裏口から二階に行くって言ってたんだよ。裏口すらないし、階段も裏にはないのにさ」
「んん? そうかい、覚えてないなあ」
「どう、病院生活は?」
「うん、悪くないね。みんな親切でね。そういえば、竜太は働いてないんだろ」
祖母が突然隼人に竜太の事を聞く。竜太は隼人の兄で三十歳でニートになった。
「ああ、そうだね。毎日家でネット見てるよ。顔に似合わず」
「ほんとにどうしようもないね。どこでもいいから働けばいいのにね。お母さんは何も言わないのかいね」
「まあ、そのうち働くよ、きっと」
隼人はそう言いながら竜太が働かないことに対して不快に感じる事はなかった。もしかしたら、自分も同じかもしれないと何度も働かない兄を見て思ったからだ。隼人は竜太を羨ましく思ったりもしている。竜太は岩手県で働いていたが、急に仕事を辞めて実家の仙台に戻ってきた。髪は茶髪で肌はこんがり焼けていた。元々筋肉質で体格はがっちりしていた。まさかブログにはまると隼人は思いもしなかったが、毎日パソコンとにらめっこをして夢中になっている。口癖は「どうにでもなるもんだ」で、金にだらしなく、女遊びもひどい。幸い酒が弱く、友達と飲みに行っても竜太はジュースを頼む程だった。隼人はそんな竜太に金を貸して何度も踏み倒されている。そんな兄に隼人は怒りもしない。悪いことだと感じても決して「働け」、「金返せ」とせまったりはしない。それが竜太にとっては不幸な事かもしれないと感じても隼人は言えなかった。
「あんたもね、きちんと働いていいお嫁さんもらいなさいね、私が生きているうちに孫の顔を見せておくれよ」
「そうだね、生きているうちにね」
隼人は考える。人はどうして働くのだろうか、確かに働かなければ生きていくことは困難だ。しかし、生まれてきた時には半強制的に働かなくてはならないという社会的システムができていた。隼人は働くことができない人、分かっていてもどうしても働くことができない人がいるならば、それは働かない人が悪い事になるのだろうかと疑問を抱く。勿論、そうはいっても隼人は働くことを選択し、人生を歩んでいる。時折、憂鬱になりつつも働く事を楽しみ、生きることを楽しんでいる。ふと湧き上がるこの感情は何だろうか、隼人は祖母に呟くように質問をした。
「ばあちゃん、人生って何だろうな」
祖母はにっこり笑って簡単に答えた。
「そんなもんは死んでみないと分からない」
隼人は笑った。人生は長い、人生とは何か、考えればきりがない。いとも簡単にその答えを祖母は隼人に悟らせた。隼人はそれが正しいかも考えるのを辞めて祖母の言った通りだと納得した。
隼人は「死んでみないと分からない」と言ってクスッと笑う。いつどうなってもおかしくないと言われている祖母に言われた言葉は妙に説得力があり、隼人の心の奥深くにある何かをさらっていってしまった。
八月三十日、晴れ。人生は曇りのち雨、時々晴れ。