静かに降る雨が春を困惑させた。窓から見る雨が奈津の望んでいた雨に違いないことは春も知っている。
「大丈夫よ、春。アニメの話なんだから」
母親は雄太と瑞貴から話を聞いて春を慰めた。冷静に雄太と瑞貴から春が泣いてしまった事の理由を聞いていたが、母親は春が奈津の容態を知っていると確信した。笑顔で雄太と瑞貴に礼を言って見送る母親の内心は胸のずっと奥深い部分を締め付けられ、憂鬱だった。
「うん」
春は母親の言葉に頷き、サーっと耳に入る雨の音を目を閉じて聞いた。
「お兄ちゃん、雨、降ったよ」
春の中で奈津の笑顔が過ぎる。それだけで春は十分だった。奈津の喜ぶ姿が春の考えを一掃した。
春はバッグに小さな箱を入れる。
「あら、なあにそれ？」
春の行動に後ろから母親が覗き込む。
「あっ！秘密だよ！ 明日持っていくやつなんだ」
春は照れながら母親からバッグを隠した。母親は可愛いわね、また奈津に何かあげるのねと思い、それ以上は聞かなかった。春はしまった！ という顔をして妙にソワソワしていた。
九月十一日、雨が上がり、空は晴れ渡っている。本を手に取り、奈津は春の絵を見る。奈津の一日が始まる瞬間だった。奈津の手は震え、本を持つのがやっとの状態だった。奈津は窓を見た。もう少し、もう少し、昨日の雨がシオンを元気にしたのだろう、すっかりシオンはピンと奈津を見て楽しそうに揺れていた。
病室の隅で横たわる奈津を見て、母親は息を呑む。昨日も見舞いにきていた母親だが、見る度に衰弱する奈津の姿は何度見ても苦しかった。
「お兄ちゃん！」
奈津が叫び、春も叫ぶ。
「なつ！ 」
二人はすぐに会話を始めた。母親も笑顔で会話に混ざった。
奈津の鼻には透明のくだが通り、体の動きも起こすのがやっとのくらい鈍く、手は小刻みに震えている。奈津の言葉はゴモゴモと聞き取りづらく、普通の人では到底聞きとれる言葉ではなかった。
しかし、春は奈津が喋っていることを明確に聞き、会話をする。母親ですら聞きとれない言葉もはっきりと理解していた。
二人の会話は思い出話だった。奈津と春が過ごした思い出を確かめるように二人で笑いながら話している。春の誕生日に奈津がつくった人形の話。奈津の誕生日に春が絵本に描いた奈津の絵。母親の誕生日に二人で作った指輪。三人で楽しく過ごしたクリスマス。
「ほら、なつが作った人形。いつもランドセルにくっつけてるんだよ。なつがお兄ちゃんに渡すとき、手がポロっととれそうになってなつは大泣きしたんだよね」
「やだ、恥ずかしいなあ。だって一生懸命作ったんだよ」
そういうと奈津は枕の横に置いてあるもう一つの人形を手に取り笑った。
「ほら、お兄ちゃん人形。ずっとお兄ちゃんと一緒だったんだ」
「うん、俺もなつとずっと一緒だったんだ。転んだ時とか、悔しい時とか、いつもなつが笑って励ましてくれたんだよ」
春の人形は奈津の姿をした人形だった。母親が針を使って布を縫って見せると、奈津は母親の見よう見まねですぐに覚えてしまった。針を手に取る奈津を見て慌てて止めようとしたが、自分よりも上手に使いこなす奈津の裁縫さばきは口を大きく開けて見るしかなかったくらいだ。
「お兄ちゃんはいつもここに来るとなつとお兄ちゃんの人形で遊び始めるんだよね、それで、なつの手が取れて二人で泣いたんだよ、あれだけ取れやすいから気をつけてって言ったのにさ」
母親は二人の会話を聞きながら顔を伏せた。明らかにいつもと違う二人の会話に込み上げる感情を抑えられない。
「お兄ちゃん、いつもありがとう。なつはね、お兄ちゃんのくれた絵本で毎日がはじまるんだよ」
「え？ そうなのか。毎日見るの？」
「うん、そうだよ。毎日。この絵本を取って最後のページをめくるの、そうするとお兄ちゃんの描いた私の絵があるからそれを見るの。そして同じ顔をつくるんだ」
「ふふふ」
春は嬉しそうに照れた。
「だから私は毎日笑顔で朝を迎えるんだよ。毎日毎日、笑顔で始まるんだ」
母親は毎日笑顔で始まる奈津の事を思うと何て素敵な事だろうと感じた。
毎年描く春の描いた絵を見て、母親は、これもまた大きく口を開けて見るしかなかった。一生懸命に不器用に描かれた微笑ましい絵を想像していたからだ。しかし、春の描いた絵は想像もできないくらい見事な絵だった。
大きな瞳に長いまつ毛、クリンとした長い髪に小さな鼻。少し潤った唇に赤ん坊の様な奈津の肌。
はにかむ笑顔に八重歯がひょっこり出ていて、ひとつひとつ繊細に描かれたその絵は「お兄ちゃん」とすぐにでも喋り出しそうだった。
「それにしても、お母さんにあげる指輪はいつも大変だったよなあ」
「そうそう、お兄ちゃんが拾ってきた石を私が削って、お兄ちゃんが私の作った宝石を入れる輪を作るんだよね。ははは、何度も何度も失敗してさ、正直もう間に合わないと毎年ハラハラするんだよね」
「だってなつの作る宝石がさ、お兄ちゃんの作った輪の中にピッタリおさまらないんだもんな、はじめてケンカしたのもお母さんの指輪の事だったもんね」
「あ、そうだね。お兄ちゃんがもう無理だよって、絶対言っちゃいけない言葉を言うもんだから私もムキになって怒ってね。でも子供の作った指輪なんて、やっぱり子供だましだったかもね」
母親は奈津の言葉を聞いて思わず「とんでもない！」と叫ぶところだった。毎年春と奈津が作った指輪はまさに宝石だった。自分の息子、娘が作る物だから宝なのは勿論だが、初めて受け取ったときは、この子達はどうしてこんな物が私に渡せるの？ と疑問に思うくらいだった。わずかにあげている春の小遣いでは到底買える事はできないだろう、盗んだ？ いらぬ心配までして、二人で作ったと聞いた時には正直腰をぬかすところだった。今もつけている指輪は子供達が作ったのと、誰に話したところで誰にも信じてもらえる事はできなかったくらいだ。
「クリスマスは三人で必ずケーキを食べるんだよね。お母さんが作るケーキは何よりも美味しいんだ、あっ、お母さん作ってきてくれた？」
母親は頷いて奈津を見る。母親は先月に来月お兄ちゃんと来るときはお母さんのケーキが食べたいと母親に頼んだ。
「勿論よ。奈津の頼みだもの」
「わーい！ いっつもなつはこのケーキをこぼすんだよね。それでお兄ちゃんの分まで食べようとしてさ、イチゴを毎年取られてるんだから。もう去年で十個は取られたんだからね」
「お兄ちゃん、数まで覚えているの？ 食べ物のの恨みは恐ろしいね」
「今日は絶対取られないからなあ」
春は奈津を見て言う。いつもクリスマスになると春は奈津にイチゴを取られる。「あ、凄い大きな鳥！」と窓を指差して奈津が叫ぶと春が驚いて窓を見る。奈津はその隙に春のイチゴをパクリと口に運びモグモグと食べてしまうのだ。一回目は鳥、二回目は小さなおじさん。三回目はわざと自分のフォークを落として春に拾わせる。あの手、この手で毎年春を欺く奈津。母親はこのやり取りを見てイチゴを毎年増やしていた。
「ねえねえ、お兄ちゃん覚えてる？」
二人の会話は続く。どうして？ 母親は何度も聞こうとした。どうして思い出話をするのか。本当は聞かなくても分かっている。でもその答えを聞くのが怖くて母親は時折会話に混ざり、唇を噛んで聞く事しかできなかった。
母親はケーキを出す。
「そろそろ食べようか」
母親はもう聞いてはいられないくらいになっていた。遮るように二人の会話に割って入った。
「うん」
声を揃えて二人は返事をした。
ケーキが入った白い箱をゆっくり開けるとびっしりとイチゴが詰まったケーキが春と奈津の前に出される。丁寧にケーキを切って母親は春と奈津にケーキを渡す。
「お兄ちゃん」
奈津が小声で春に言う。春は頷いて小さなバッグから一つの小さな箱を取り出した。
母親は二人の妙にソワソワした様子を見て、何だろうと思った。
「はい、お母さん」
春と奈津は声を揃えて言う。
「誕生日おめでとう！」
母親は二人の言葉に思わず涙が溢れた。思いもよらないその言葉と同時にケーキを頼んできた奈津の真意にも気づいてしまったのだ。これはクリスマスケーキだ。そして今渡されるはずのないこの箱には毎年贈られる指輪が入っている。母親の誕生日は十月だ。
「どうして……」
母親は下を向いて言葉を詰まらす。聞かなくても分かっている質問を口に出してしまう。気を取り直して「ありがとう」と言わなくてはならない、すする涙の音が病室に響く。必死に涙を堪えて笑顔をつくろうしても、どうしても顔が歪んでしまう。三人の間にしばらく沈黙が続く。先に声を発したのは奈津だった。小さな声で母親をなだめるように発した奈津の言葉は震えていた。
「今日が最後だから……」
奈津ははっきりと口にした。春もこの時ばかりは笑顔ではいられなかった。顔をしわくちゃにして涙を堪えようにも溢れ出る涙はどうしようもなかった。
「早く箱を開けて見てよ。頑張ったんだよね、お兄ちゃん。 一か月も先に作らなきゃいけなくなってさあ。ごめんね、お兄ちゃん」
春は首を横に振る。母親は手を震わせて箱を開けようとしたが開けられなかった。
「どうして奈津が……、嫌よ。こんなの。お願い奈津、そんな事言わないで」
母親は冷静ではいられなかった。「ありがとう」の一言が言えない。奈津が死ぬということが受け入れられない。
「お母さん……」
奈津はゆっくり言う。春は奈津の手を握った。声を震わせて涙を堪える奈津の気持ちが春に伝わる。
「私はずっと死とは何かを考えていたんだ。でもね、別れは辛いけど、死というのは生きる過程の一つに過ぎないんだよ。私達はその先を知らないだけ。だからね、そんなに悲しむことはないんだよ」
「なつ、怖くないの？」
涙を流して春は奈津に言う。春は奈津が死ぬという事を感じても自分にはその実感がない。死という事がどういうものか正直、春には理解できていなかった。
奈津は春を見て笑って頷いた。しかし、春が握りしめた奈津の手は激しく震えている。春は奈津を見て笑う。
「ほら、なつ、大丈夫。怖くないよ、ずっと一緒だから」
そういうと春は奈津の手を強く握り締めて目を閉じる。奈津も一緒に目を閉じた。奈津の目から涙が零れる。笑う、怒る、泣く、春と母親の顔が鮮明に浮かんだ。どんな春だって、母親だって奈津の中で生きている。決していなくなることはない。春も奈津の姿がはっきりと浮かんでくる。奈津の震えた手はいつの間にか止まっていた。
母親は二人が自分以上にきちんと受け入れている事を知った。母親も目を閉じる。奈津の手を取り、春の手を取る。三人の輪が鮮明に映し出され、三人はずっと一緒だと理解した。
「ありがとう」
母親は素直に言う。そして手元にある箱を開けて指輪を手に取った。窓から差し込む光が奈津の作った宝石を光らせた。指輪にはアルファベットのＡに小さなＨとＮがぶらさがっている文字が刻み込まれていた。手につけている指輪を外して母親は新しい指輪を手につけた。
「綺麗」
母親の言葉に奈津と春が顔を見合す。やったねという表情で二人は喜んだ。
三人は笑顔でクリスマスを過ごす。一足早いそのクリスマスはいつも以上に幸せに包まれていた。太陽が雲に隠れ、部屋は昼間だというのに薄暗くなっていた。
奈津のケーキはイチゴだけ食べた状態で残っていた。春の皿にはイチゴだけが残っている。「後の楽しみなんだ！」と春はイチゴだけを残した。ケーキを食べ終わらずに春と奈津はそのまま眠りにつく。母親も二人につられるように眠りについた。
雲が通り過ぎ、太陽が窓から春の顔を照らす。眩しい光に気づいて春はむくりと起きた。奈津の手を握りしめた手がじんわりと汗をかいている。
「なつ……」
ゆさゆさと奈津の体を揺らしてみたが、奈津はピクリとも動かなかった。春はもう一度揺らす。
「なつ……、なつ……」
動かない。
「なつ、なつ、なつ……」
動かない。
「なづ……、うっ、んぐっ」
春は涙を堪える。奈津の顔は穏やかで澄んだ顔をしている。春は目を閉じる。大丈夫、奈津、ここにいるよ。春の瞼から一滴の涙がこぼれた。
サーっと雨の音が耳に届く。晴れ渡った空から雨が降る。春は振り向いて窓に近づいて空を見る。
「お天気雨」
春が呟く。
「あっ！ 虹だ」
春の視線の先には虹色の雨が降り注ぐ。
「ワッ！」
春は大きな声を発した。虹色の雨が降り注ぐその下にシオンの花が辺り一面に咲いている。今まで見た事のない美しさに春は見とれていた。きっと雨が降る度に奈津に会える。春はそう感じた。「お兄ちゃんに見せたいものがあるんだ」春は奈津の言葉を思い出す。春はしばらくシオンを見て立ち尽くしていた。
春の後ろでカチャリと音がする。驚いて春は「なつ！」と叫んで振り向いた。しかし、奈津は先ほどと一緒の体制でベッドに横たわっている。母親はぐったりと眠っている。シンと静まりかえる病室に雨の音だけが聞こえてくる。春は肩を落とすと同時にさっき以上に大きな声で叫んだ。
「あーーーーーーーー」
驚いて母親が飛び起きる。クスクスとベッドの方で声が聞こえる。
「なつ！やったな！」
春は奈津に向かって言う。母親が春の手元に視線に目をやり、思わず吹き出した。母親と奈津の笑い声が病室に響き渡る。
春の楽しみに残していたイチゴは綺麗さっぱり皿からなくなっていた。
お わ り