「トラウマでヨーガを克服する」のまえがきにある一文に、惹きつけられました。

  私たちはこころを開いて生まれてくる。

以下に前後の文章を抜粋します。
"人間は傷つきやすい生き物である。私たちはこころを開いて生まれてくる。そして、時に私たちは、その開かれたこころが粉々に打ち砕かれるようなことに遭遇する。"
読み始めたところですので、本の内容に関してではないのですが、この言葉から思い浮かんだことがあります。トラウマとまではいかないまでも、幼い頃、もしくは大人になってからも理不尽な思いで苦しんだことは誰にもありますよね。

私は自分が不器用な子供だと長いこと思っていました。それはいつかの時点で周りから継続して言われ、刷り込まれたことなのでしょうが、成長してデザイナーになった時には器用だと言われます。学校ではコンピュータ・アート学部にいましたが、卒制課程で透明なプラスチックガラスをチェーンソーでほとんど正円にカットして、彫刻専攻の友人が驚いていました。マクロビの料理教室では、クラスメートに光栄にも「千切りの人」と呼ばれたりもしました。


OkiShanti 沖縄、ヨーガ。-sunflower

北中城の向日葵畑。移住3年目でようやく訪れました。


ですが実際に、高校の家庭科の宿題の浴衣は学期末に間に合わず、夏休みに呼び出しをくらっても仕上げられずに祖母に縫ってもらったし、千切りが上手になったのは、大学の宿題に詰まると気分転換にきんぴらをよく作っていたため。もともと器用なわけではないのです。何しろ、底に安定感の無い丸い器や茶碗を取ろうとして倒してしまうことがよくあり、bio cafeのお手伝いをしていた時もソースが入った小鉢を転がしてしまったり、それは少し前までありました。

十分大人といわれる年齢になり働いていた頃、しばらく実家に居候していた時期がありました。ある日の朝の食卓についていたところ、お味噌汁のお椀を倒してしまったのです。その時テレビでニュースがかかっていましたが、父親が何も言わずにスイッチを切りました。イコール、「私が注意散漫でお味噌汁を溢した」ですね。とても恥ずかしくていたたまれない気持ちになりました。私の父はそういった行動を取ることが少なくないので、悲しい思いをする事もありました。もちろん他の人から見れば、大したことでもなく、楽しい話にもなり得ます。ここでの私の思い、感情は全て父との関係性や環境によるものであり、トラウマに至るような圧倒的な人格破壊ではないのですが。

しかしその丸いものをトスしてしまう癖は、自分ではどうして起こるのか?という感じで起こってしまうのです。その倒れるものに、触っていないのに倒れる。不思議だ...、と思いながら長年過ごしてきましたが、ある日自分の手指をまじまじと観察して気がつきました。私の中指は人差し指よりも爪ひとつ分長いのです。

そーなんだ!!と目から鱗でした。つまり人差し指で触ろうとして手を伸ばし、先に中指が到達して押し倒していた、ということですな。もっと早く、どうして気がつかなかったのかと思いましたが、ヨーガを始める前はこういったことにも気がつかなかったのだと解りました(これに気がついたのも最近ではありますが)。

私は本当の意味で自分を大切に扱うようになったのは、ヨーガを始めてから後です。長いことばか者でしたが、いろいろな気づきからくる内観と客観視、手放してゆくことを知り、随分と楽になりました。家庭科の課題を仕上げられないのも、不器用というよりはやるべきことをきちんとやらない生活をしていたのであり、いつ帰宅するのか解らない、もしくは帰宅しない、という自分勝手な生活をしながら寝食のお世話にはなる、という態度に父は腹を立てていたのでしょう。

自分のからだ、こころを知らずに生きている時間の何と長いことか。

その後も父と私はいろいろあるのですが、それも昨年の今くらいから諦めました。簡単に言うと、顔を合わせないようにしています(笑)。年齢のことも、持病もあるので気になりますし、仲良く頻繁に会えたらそれに越したことはありませんが、会うとかなり辛い結果になることが少なくありません。

ですから、遠くから。もちろん尊敬していますし、健康で幸せでありますように心から祈っております。



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