徳島港の青春時代③

上の写真は新婚旅行でお世話になった高速船のチケットです。

この時はまだ「沖洲マリンターミナル」は完成していませんが

その後、明石海峡大橋の完成まで

徳島港は活気にあふれていました。

 

明石海峡大橋開通の光と陰

1998(平成10)年4月5日  徳島新聞新聞朝刊

明石大橋きょう開通
午後5時から車両通行

阪神フェリー航路閉鎖へ
昼すぎ最後の出航

明石海峡大橋の開通に伴い、徳島県と阪神方面を結ぶ海上交通機関のうち、
徳島阪神フェリー(上下16便)、徳島高速船の徳島-神戸(同6便)と鳴門-大阪
(同6便)が五日限りで航路を閉じる。
開通翌日から減便する航路も相次ぎ、これまで阪神へ渡る主軸だった海の足は
大幅に縮小される。
徳島阪神フェリーは午後1時徳島発、同2時20分大阪南港発、徳島高速船の徳島
-神戸航路は午後零時5分徳島発、同2時半神戸発、鳴門-大阪航路は午後零時
20分鳴門発、同2時40分大阪発が、それぞれ最後の便となる。

このほか、徳島高速船の徳島-関西空港-大阪航路(上下24便)が新会社の「徳島
関空ライン」(徳島市)に引き継がれ、開通翌日の6日から上下16便の減便ダイヤで
運航を始める。
南海フェリーは、開通後も上下24便の運航を継続する。


明石海峡大橋の開通時期直前が徳島の海運が最も活発だったころです。
徳島港(沖洲地区)からは
関西を目指し、フェリーが8往復、高速船が24往復運航されていました。
当時、時刻表にも「沖洲」の文字が誇らしげに載っていました。

当時の時刻を探ってみました。
1998(平成10)年4月3日の時刻(同日付、徳島新聞朝刊参考に作成)

『フェリー』
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『高速船』
<徳島高速船>
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<南海徳島シャトルライン>
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また同・紙面下側の広告で「徳島高速船」の就航廃止のお知らせが掲載されている。

就航廃止のお知らせ

明石海峡大橋供用開始により長らくご利用いただきました、
「徳島⇔神戸航路」
「鳴門⇔大阪航路」

の二航路が4月5日をもって航路廃止となることになりました。
長い間のご愛顧、ありがとうございました。
なお、4月5日の運航は各航路とも上下第1便・第2便のみの運航で、第3便は休航となります。
予めご了承ください。

海外・関西方面へのビジネス・ご旅行には徳島関空ラインの高速船をご利用ください。

徳島高速船徳島関空ラインに4月6日変わります。
徳島高速船⇒徳島関空ライン株式会社

減便および時刻変更のご案内

「徳島⇔関空⇔大阪航路」は
明石海峡大橋供用開始をうけて、運行時間の改定を4月6日より下記時刻表の通り実施します。
予めご了承ください。
 
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998(平成10)年4月6日  徳島新聞新聞朝刊
さよなら、ありがとう
廃止航路、最後の航海
ドラが響き汽笛が泣いた・・・
華々しいセレモニーが繰り広げられた明石海峡大橋開通の陰で、徳島阪神
フェリー、徳島高速船の徳島-神戸と鳴門-大阪両航路、淡路フェリーが、5日を
限りに航路を閉じた。
陸続きとなった徳島と阪神地方との人、モノの輸送を担ってきた動脈だった。
(略)

涙で送る船員の妻
紙テープ手に200人お別れ
徳島阪神フェリー

1971(昭和46)年から約27年にわたって航路を支えてきた共正汽船の「おとめ丸」。
出港を知らせるドラの音が港に寂しげに響き、船体のデッキと岸壁を無数につなぐ
五色のテープが、名残を惜しむようにすこしずつちぎれては海に消えていった。
(略)
利用客、何度も「寂しい」
徳島高速船

(略)
乗船を促すアナウンスに押され、次々と船に乗り込む63人の乗客。
午後零時20分、歓喜に沸く明石海峡から約60㌔離れた同じ海の上で、最後の
航海を告げるいつもより長めの汽笛が、二度、泣いた。
(略)

淡路フェリー
しんみり”終業式”

午後6時、大磯港から地元の津名高校吹奏楽部が演奏する行進曲「威風堂々」
の中、34年の歴史に幕を閉じる最終便の「富貴鶴丸」がゆっくりと離岸。
関係者は、紙テープを握りしめ、感慨深げに手を振った。
(略)