劣化コピーに非ず | okinawan-spiritのブログ

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毎日毎日の

薄紙を

重ねるような

稽古


稽古の核は 型

偶数日は右始め

奇数日は左始め

最後は閉眼で型を打つ


毎日

その繰り返し


ここで

ふと考える



そもそも

とは何か

安易な護身術か

ただのコンビネーションか





P121

「伝統派の空手にあるような演武の型はうちで   はやりません。


ですから、平安の型も、わたしはできないんですよ。


平安の型というのが、どういう型のことを指すのかわからなかったが、木原はうなづいた。



P179
(略)うちの会派から独立した者は多い。

その連中の中には古流の型を、一切やらない者もいる。(略)
(略)

「だがな一方でうちから独立した先輩の中には、夢中で型をやり始めた人もいる。


そこで俺はわからなくなったんだ。


俺も悩んでいたというわけだ。




P160.

「あんたたちは、型だけをやっているわけではないということか?


「当然だ。

ときには防具をつけ、竹刀を持って打ち合う。


したたかに打ち合ったのちでないと、型の意味はわからない。」





型か

組手かの

二者択一

に非ず



簡易護身術化や

こじつけ分解の中には

答えはおそらくないだろう


ただただ

毎日欠かさず

型を打つことしか道はない





毎日

欠かさず

繰り返すことが

目的になってしまっては

本末転倒というものだろう


惰性で

漫然と稽古

するだけでは


型を

打てば打つほど


劣化コピー


になってしまう


その点

道は違えど

参考になる動画だった ↓






稽古の核になるのが


型の核になるのが宗家


という存在だろう



宗家を

和文和訳すると


いつでも

たち帰れる

場所


アラ古希となって

何十年ぶりに締める白帯


色帯と

いえども


宗家との

血脈を保てるように


沖縄の宗家から届いた允許状



劣化コピー


とならないように






今日も

これから


薄紙を

一枚重ねる