これより、関東地方における荘園の存在意義について述べます。



 関東地方における荘園の存在意義は寺社領かそうでないかで二通りに別れると考えます。まず皇室領(注1)か摂関家領である場合、「裏切らない戦力」の確保にあると考えます。一方で寺社領の場合は東北地方の太平洋側への布教を円滑にするための中継地点の確保にあると考えます。





 現在でいう関東地方は西国に比べて朝鮮半島や中国の中央圏から遠く、東南アジアからも遠く、東北地方や北陸地方に比べてロシアをはじめとするユーラシア大陸北部からも遠いため、アメリカ大陸にヨーロッパ諸国が進出するまでは国際交流に不向きでした。またオトタチバナヒメ伝承が示すように、相模湾から鹿島灘まで海が荒れやすいため、海上においては現在でいう東海地方と東北地方から隔絶されており(注2)、陸上においては山脈で東海地方と北陸地方と東北地方から隔絶されています。このような地理環境のため他の地方と交流するには険しい地理条件をのりこえようとする意思が働く必要があり、国際交流するには他の地方を経由する必要がありました。関東地方は交流の仕方で命運が決まるといっていいでしょう。まさに「中立区域」にふさわしかったのです。



 ユーラシア大陸で激しい変動が起こっているさなか、日本の王朝は地方が外国の王朝と結びついて日本の王朝に刃向かう動きを抑えようと郡もしくは郷単位の自治体を皇族、摂関家、寺社勢力のいずれかが所有し行政を監督することによって律令ではできない対応をも可能とする融通のきく仕組みを編み出しました。このように政府ではなく皇族、摂関家、寺社勢力の管理下に置かれた自治体を「荘園」と呼びます。そのほかにも日本の王朝は自治体への対応について融通をきかせる仕組みをいくつか編み出し、律令による対応不可能の度合いによって対応を分けるようにしました。



 では「裏切らない戦力」の確保とはどういうことかといいますと、外国と交流しやすい他の地方では「荘園」にしたとしても裏切る恐れがある分、国際交流に不向きな関東地方ならば裏切る恐れは低いということです。なので皇室と摂関家は外国と交流しやすい地方を監視するための荘園を関東地方に設けたのではないかと考えます。例えば奥州藤原氏は後白河院の異母妹の八条院の派閥に属していましたが、鎌倉の源頼朝が討伐軍を差し向けた際、大将に八条院領下総国千葉荘の荘司職にあった千葉常胤が任じられていることからも外国の王朝に接近する地方をにらむ関東地方という構図が浮かびあがってくるかと思います。奥州藤原氏はまさに盛んに外国と交流し巨万の富を築きあげていました。恐らく八条院派の力を削ぐことを望んでいた後白河院の意を汲んで源頼朝は大義名分をたてて奥州藤原氏討伐に及んだものと考えます(注3)。源頼朝は関東地方の強みを活用することで日本の防衛上の権限を掌握することに成功したのです。






   それでは寺社勢力が東北地方の太平洋側への布教のための中継地点を確保するとはどういうことかといいますと、関東地方に荘園を設けないと東北地方の太平洋側への布教をするには営業職が太平洋側を進んだ際、関東地方を越えるまで何かあった時、荘園がなくて系列の寺社を見つけられない場合またはそれにたどり着けない場合は雇い主と関係ない人に助けを求めるしかありません。これは負担が大きいです。荘園を設けておくと、何かあった時にすぐに仲間に助けを求めることができるでしょう。そのための関東地方の荘園というように考えます。



 寺社は中立の立場から政治を手助けすることを生業としていたと考えます。必ずしも合理的に行動するとは限らない人間には科学的な説明で理解するのが無理な場合がどうしてもあります。政治というのは沢山の人が動くことですので複雑です。政治が一体何の役に立つのかを神々の存在をもちだして人々にわかりやすく説明することで寺社の商売は成り立っていたのではないかと考えます。当然、政治を助ければ助けるほど儲かりますので市場を広げることになります。北方の国際交流窓口である東北地方に布教すれば、さらにユーラシア大陸北部へ市場をさらに拡大できる見込みができます。



 では、実際のところ、どうなっているのか伊勢神宮勢力を確認してみます。伊勢神宮は関東地方に多く荘園を設けていました。しかし東北地方にまで荘園を設けることはできなかったようです。ただし、伊勢神宮系列の神社は下野国との境目あたりから確認でき、関東地方の伊勢神宮領が東北地方に伊勢信仰を広める役割を果たしていた可能性は考えられます(注4)。







   険しい地理環境ゆえに他の地方から隔絶されていることが関東地方に「中立区域」の性格が形成されたことが日本の歴史の表舞台で活躍する必然性を生んだといえるでしょう。鎌倉に幕府が開かれ、室町時代において鎌倉府なる機関のもと引き続き日本の防衛の中枢を担い、その内紛による混乱が日本の戦国時代の原因の一つとなり、近世に入っても、その性格は失われることがなく、やがて新選組や新徴組を輩出することになります。明治より後は首都が京都から東京に移り南関東が最大の貿易窓口となったため関東地方の「中立区域」としての性格は失われました。同時に日本の主な外交相手は欧米へと移り、対中国、対朝鮮、対ロシアの外交は二の次の扱いに変わりました。また明治に入って以降、地方分権的な体制から強い中央集権体制に変わり、地方が独自に貿易をする余地はなくなりました。第二次世界大戦における敗戦後、中央集権体制はゆるめられたものの今現在も地方が貿易することには強い規制がかかっており、また何もかも資金は東京にまとめて全て集められて東京が優先して資金の大部分を受領したうえで順番に地方自治体に分配される仕組みのため今となっては地方がかつての奥州藤原氏などの平安時代の豪族のように中央と同等に栄える余地すらありません。これでは「中立区域」どころか東京が日本の唯一の羅針盤となっている状況です。しかし東京が首都となった必然性も関東地方が「中立区域」を担っていたからこそ生じたと考えていいでしょう。その「中立区域」は日本の仏教の歴史をも動かしました。関東地方から浄土真宗と日蓮宗が生まれたのです。どちらも世界的な基準をとっているという意味で画期的だったといえるでしょう。「中立区域」ゆえに世界的な基準をとった宗派を興しやすかったと考えていいでしょう(注5)。このように「中立区域」だった頃の関東地方から大昔の日本列島が大きいスケールで見えてくるようです。日本の歴史に疎い通訳業者(注6)はよく「狭い日本」などと口にするが、むしろ大昔の方が世界は広かったのではないかと筆者は思えてきます。














(注1) 研究者の間では現在も存続しているのにも関わらず一般的に「皇室」とか「天皇家」と呼ぶところを特定の時期に限って「王家」とか「院宮家」という特殊な呼び方が好んで使われますが、なるべく普遍的に通じる呼び方を使う主義の筆者としてはあえて「皇室領」と呼ばせて頂きます。




(注2)「日本武尊東征」 


においてヤマトタケルの東征における足跡がまとめられています。オトタチバナヒメ伝承が神奈川県~千葉県に集中しているのが伺えます。茨城県に入ると海難の言い伝えがありません。かろうじてオトタチバナヒメの笄が霞ヶ浦に流れ着いたという伝承があります(「1300年の歴史の里〈石岡ロマン紀行〉」から「橘郷造神社」の記事を参照のことwww.rekishinosato.com/tachibanagou.htm )。




(注3) 源頼朝は後白河院派の立場です。後に後白河院派の流れが北朝につながり、八条院派の流れが南朝につながると言えば、後白河院派と八条院派の競合関係を理解して頂けるかと思います。奥州藤原氏討伐後、その管轄は源頼朝の直轄になりませんでした。奥州藤原氏の一族である安藤氏に管轄が渡ったのです。源頼朝は日本の防衛上の権限を独り占めできればよく、奥州藤原氏を討伐することを後白河院が望まなければ行わなかったことでしょう。奥州藤原氏討伐後、源頼朝が唯一無二の武門の棟梁になったかと思えば、朝廷には平清盛のような強い指導者はもはやいないため、幽閉されたり廃位される心配がなくなった後白河院の最高権力者の立場は揺るぎないものとなっております。平清盛も八条院派です。源頼朝が討伐した源義仲も八条院派です。彼ら八条院派が力をもち続けると後白河院の立場は危ういものとなったわけです。従って源頼朝は後白河院が邪魔に思う八条院派の者を討伐していったことになります。もし八条院が最高権力者だったならば地方にいくつも皇室を圧倒するくらいの権勢をもった豪族が乱立することでしょう。同時に貿易への規制もゆるいものとなったことでしょう。道理で八条院の息のかかった豪族が大きな力をもたなくなって、日本の防衛は後白河院派の源頼朝一人が握る体制になれば後白河院の最高権力者の立場は揺るぎないものとなるわけです。だから最終的に一番得をしたのが後白河院であると筆者は理解しており、このような見解を採っています。




(注4) 国立歴史民俗博物館「日本荘園データベース」にて検索しました。伊勢神宮系列の神社をGoogle mapで検索したところ下野国との境目あたりから確認できるが常陸国や下野国の伊勢神宮領荘園とのつながりを伺わせる情報を確認できませんでした。



(注5) 当時、東アジアでは法華経を絶対視する仏教論が盛んでした。まさに日蓮宗はこの東アジアの流れに乗って興ったとみることができます。それから世界では聖職者の結婚を認めない宗教の方が少数派です。親鸞の打ち出した方針は世界的に通用するものといえるでしょう。そういう意味では神道はもちろん、キリスト教の東方正教、イスラム教、ヒンドゥー教にも通じています。


真宗教団連合「親鸞聖人を訪ねて」 


誰でも知っておきたい正教会の諸習慣と常識 


出口治明「間違いだらけのイスラーム教!日本人は、なぜこうも誤解してしまうのか?」https://diamond.jp/articles/-/269745


Y-History 教材工房「世界史の窓」より「カースト制度」https://www.y-history.net/appendix/wh0201-025.html「ジャーティ」https://www.y-history.net/appendix/wh0201-024.html





(注6) 筆者独自の呼び方。通訳、翻訳家、外国の人文科学の専門家をひっくるめて呼んでおります。






参考文献


   

   岡野友彦『院政とは何だったか』

   入間田宣夫編『兵たちの時代Ⅰ 兵たちの登場』

   斉藤利男『奥州藤原三代』

   五味文彦『院政期社会の研究』