今回は歴史を自国の近世史を基礎に学習する方法の有効性を述べることとします。







今回の評論内容





 どの国のどの時代を勉強するにしても自国の近世史を基礎とすべきです。そうすれば自国の近世史を基準にすることによって、あらゆる国のあらゆる時代が理解できると考えます。なぜなら、どの国も近世で「国の個性」が固まり、それまで築きあげてきた文化のいい部分を結集することによって「国の伝統文化」が完成したからです。そして「国」そのものが完成したからです。また記録に対する感覚が現代の我々と一緒になったからでもあります。それはどういうことかと言いますと、それまでは現代の我々からすると記録にとっておくべきことを記録にとってこなかったのです。例えば領収書や帳簿です。大きな問題に関わることでなければいちいち物の売買で領収書をとったり帳簿をとらなかったわけです。つまり日常レベルの買い物ぐらいでは記録はとらなかったのです。それが細かく記録をとるようになったわけです。それから記録をとる人が増えました。例えば、それまで政治家や役人ぐらいしか、まめに日記を書かなかったのが、庶民に至るまで日記を書くのが見られるようになるわけです。識字率の上昇とともに生産される記録の量が増えたと理解していいでしょう。実は古代と中世に史料が少なく近世に史料が多い原因は単純に保存が長持ちしなかったせいもあるのですが、識字率の上昇と共にたくさんのことが記録に残るようになったせいでもあるのです。古代と中世を研究する場合、意図的に記録を残さなかったり記録が破棄された場合が近世より多かったことも考慮に入れるべきでしょう。従って古代と中世の史料は本当に重大なことを書いている史料しかないといえばそうなんでしょう。その代わり重大なことについては具体的に記述してある場合が多いわけです。記録の量が多ければ過去のことを書いているものもそれだけあるわけです。古代と中世に関しては一次史料でなくても、それまで政治家が意図的に破棄した記録や残さなかった記録、そして保存が切れた記録にあることが伝わっていたのを文字を習得した近世の人がようやく書き残すことができたことを考慮すれば近世の過去の記述を情報にとりあげてもいいでしょう。また、近世社会のしくみがそれまで積み重ねてきたことからできるていることを考慮すれば、なかには古代や中世にも言えることも含まれていると考えられるという意味でも残っている古代や中世の史料にないことについて近世を参考に考えるのは有効と考えていいかと思うのです。

 以上のことから、自国の近世史への理解を深めてから古代と中世について何かを近世から引いたり何かを近世に足したりして考えるようにすることで史料がない分のひねった考え方をしやすくなるのではないかと思います。そして外国の近世史を自国の近世史に当てはめて考えてみても的から外れていない理解ができるかと思います。そして外国の古代や中世も同様にして何かを近世から引いたり何かを近世に足したりして考えるようにすることで史料がない分のひねった考え方をしやすくなるのではないかと思います。そして近代も同様にして何かを近世から引いたり何かを近世に足したりして考えるようにすることで、的から外れていない理解ができるかと思います。外国の近代も同様にして何かを近世から引いたり何かを近世に足したりして考えるようにすることで、的から外れていない理解ができるかと思います。







「国の伝統文化」の完成





 ここで、世界各国が似たようにして中世から近世を歩んでいったことを確認してもらいたいと思います。世界の歴史は戦争が絶えなかった中世から戦争を自粛する近世に移り変わるという歩みを踏みます。あまりにも戦争が多くて犠牲者が大勢出て不安定になったところで、ようやく世界中の政治家が戦争はなるべくやらないようにした方がいいことに気づきました。そこで世界は「統合」へと向かいます。その過程で自分たちはどうあるべきなのかを問い直すための民族文化を見直す運動が起きました。これは内乱を鎮めるのに効果的でした。民族文化を見直した結果、儀礼をどのようにしたら人々は実施しやすくなるかが見えてきて、儀礼のノウハウが体系だてられていくことになりました。そして、それが戦争がなかった頃はどのようにして治めてきたのかを政治家たちに思い出させる効果をもたらし、さらには、むやみやたらと戦争をしなくなるにはどういう対策が必要なのかを考えさせる効果をもたらしたのです。やがて諸国は「統合」へと進んでいきました。「統合」が果たされると、それまで分裂しやすかった政治の仕組みが分裂しにくい政治の仕組みに整えられていきました。そのおかげで内乱は起きにくくなり、戦争の頻度が減った分、下々の者まで教育がいき届くようになり、やがて「国の伝統文化」が完成されるのです。

 






おさらい





 以上のことを踏まえ、ここで今回のおさらいをしましょう。改めて、自分の国の近世史を基準に歴史を理解することの有効性を確認してもらいたいと思います。

 どの国のどの時代を研究するにしても、まずは自分の国のことをよく知る必要があると思います。なぜなら、例えばドイツの歴史に詳しい日本人が日本の歴史をあまりよく知らないなんて変ですよね。それは同時にドイツの常識は通じて日本の常識が通じない日本人だということですよね。ドイツではまともに生活できても、きっと日本で生活すると支障が多く出るのではないでしょうか。それは精神的な無理も生じると思います。なぜなら日本人に生まれたからには少なくとも幼少時は日本の文化で育つからです。日本に生まれれば、みんな日本人だとするば両親が日本に移住してきた同じ国の外国人の場合も日本人ということになりますが、生まれて少なくとも数年は基本日本文化で育つわけですし、外国式の教育を受けるにしても、それは自分でものを食べられるようになってからで、自分でものを食べられるようになった段階でなければ親としても教育方針を決めることはできないわけで、日本で育てば誰もがはじめは日本文化で育つのです。そうでなければ「郷にあっては郷に従う」生活ができなくて迷惑をかけるばかりの人間になりかねません。だから歴史を学ぶにしても、まずは自分の国のことをよく知る必要があると思います。歴史を学ぶにあたって自分の国のことをよく知るには「国の伝統文化」が完成され、それによって社会がまわった近世をよく学ぶべきでしょう。そうすれば自分の国への理解が深まり、古代でも中世でも近現代でも、的が外れていない見解を出せる研究がより可能になると思います。そして、それは外国 の歴史を研究する場合にも有効だと思います。なぜなら、どの国も中世から近世は似たような歩みを踏んでいるからです。従って自分の国の近世史を基準として、あらゆる国のあらゆる時代を理解することは大いに有効だと考えていいかと思います。






締め




 偉そうなことを言ってるみたいになりますが、私も勉強不足なので、これから近世を深く学んでいきたいと思います。きっと近世の知識を使ってても、れっきとした中世の論文が書けると信じて励んでまいりますので、できる人は応援をよろしくお願いします。