長すぎて分割しました。

 

問題論文「昼の神様・夜の神様」
「夜の神様」の存在証明
本当におられるのです。誕生の過程が創世記に隠されていました。


「問題論文」というタイトル、その昔、“問題論文「マルクスは悪魔崇拝主義者か」”という記事が確か「自由と救済」という新聞に連載されていて集めていたことを思い出しました。こちらも非常に奇抜な内容の記事でした。
この「昼の神様・夜の神様」に取り掛かってずいぶん経ちました。主要な部分は直ぐに出たのですが、その後も継続して細かなアイデアが出続けるので、区切りが付けられずにかなりの投入になりましたが、はたと、この時期に何の意味があるのか と疑問が涌いてしまいました。
すると答えがありました。“「夜の神様」の存在証明 が重要である ”というのです。
「天のお母様」の存在証明はできませんでした。これは完璧に隠蔽されています。「シッポ」を出しません。
    蛇足になりますが、「シッポ」は人と動物を区別する印のようです。 天使に「シッポ」があれば万物です。そういえばサタンの絵にはシッポが描いてあります。幼稚園の時に学芸会で猿の役になりシッポを付けた衣装を着た時に、何か屈辱的なものを感じました。
「夜の神様」は存在証明できるのです。わざわざ「見つけてくれ!」とばかりに、創世記に立派な「シッポ」が出ていました。
基本的なものはわりと直ぐに出来たのですが、その後も継続して新しいアイデアが出てきていて、どこで切ったら良いのかわかりません。
早く出さねばならないと焦っていたのですが年を越えてしまいました。ところが「急がなくても良い」との返答がありました。どうも、「良いものにするように」ということのようです。差し当たり遅れても特別な影響はなさそうです。どちらにしても私の思考力、文章力の限界を感じています。




「神様が二人?」
お父様の御言葉「昼の神様・夜の神様」は明確に二人の神様の存在を語っておられます。
おおよそ、アダム・エバの昔から今に至るまで全人類、更には天使界でさえ誰も知らなかった?、正に「寝耳に水、」の話です。開いた口が塞がりません。キリスト教は唯一神、神様はお一人と相場がきまっていました。
お父様は、さも当然のように「二人居るのだ」と語られながら、背景、意味合いを語る事無く逝かれてまいました。
まともに考えれば「お父様は狂った」としか言いようがありません。


神様が二人と言う設定
①元々、神様は二人だった
 ・・・これを論証するのはかなり簡単です。神様が何故いるか? ということの答えと同じで、説明不要「いたんです!」で終わりです。神様の発生の論証は出来ません。一人でも二人でも同じです。ただし、「では何故に今まで隠していましたか?」と責められます。
②元は一人であったが、途中で二人になった。
 ・・・この場合は、何時からか、どようにして二人になったか、その経緯を証明する必要があります。
以上、簡単にふたつの条件になります。
お父様はどちらとも言わずに去られてしまいました。
当原理ハッカーは、②の証拠に辿り着いた、と勝手に考えています。
そこには語る事の出来なかった「出生の秘密」がありました。


神様の単身時代 の扉を開く
この論文の重要な鍵となっているのは天地創世以前の「神様の単身時代」という観点です。
私には、何の疑問も無く創世以前の「神様の単身時代」という考えがありました。「天地創造の時代図」はそれで始まっています。
ところが、これが普通ではなかったようなのです。

天地創造、創造主 を信じながら「神様の単身時代」を考える人は稀有?。我が統一教会においても同じです。
   神は天地創造以前、何をしていたか。/
理由・・
考えても分からない。
時間も空間も物質によって出来ている。創世以前には時間も空間も無かった。
時間が無いので因果律が成立しない世界。
神自身が「私はあってあるもの」である、と言う。原因であり結果だ、と言う。
普通は、これ以上考える人はいないのです。しかし、私は違う。そんな騙しに誤魔化されません。
これは明らかに「これ以上は踏み込まないように!」と“結界”を張っているのです。
「神様の単身時代」という言葉を使う人がいません。これは不思議な事に、誰も考えたことの無い異世界への扉 だったのです。
肝心の「創世記」も「天地創造」から始まっていて、創世それ以前の記述はありません。
原理講論は創世部分が全くありません。明確な存在様相はでてきません。ただ、偉大な創造の動機「愛の理想」だけは認めています。

当原理ハッカーは「論理的整合性」という鍵で、隠されている真実を暴き出す、という手法でこれまで理屈を捏ねてきました。この度は「神様の単身時代」という鍵語で追及してしていたら「昼の神様・夜の神様」という課題に突き当たってしまったのです。それは創世記 一章の解読となりました。



大命題 神様の単身時代

神様の単身時代が「善」であり「愛」である、あるいは「愛でなければならない」という根拠は存在しない。
疑いの目を持って探索すれば、最終的には神様の天地創造の時、そしてその前段階の構想時代、更には創造以前、独り自由自在に暮らして来られた神様の単身時代、無限に長く、想像も出来ない世界の神様の本体。
もしかして、神様の単身時代は、私が思い込んでいたものと相当に違っていた? ・・・これは大問題です。
正しく、私が当然の事として神様の単身時代も善だ、という考え、これはお父様の御言葉に従ってきた我々にとっては当然の結論と言えます。ところが、一度お父様の御言葉を外して見ると、これは一方的な勝手な決めつけに過ぎないのです。
神様がどんな存在様相であろうと神様の勝手、自由なのです。我々被造物がとやかく注文を付けられることではないのです。
即ち、我々が勝手に決めた「善悪」という価値観は存在しなかったのです。
一人で生活するのにある価値観は「好き嫌い」だけです。そして事実はどうだったのかということだけなのです。誰も文句を付ける人はいません。
究極の自己中、それは神様
「悪」とは「自己中」の変形ですが、単身時代の神様がその「自己中」の元祖と言えます。その価値観は「好き嫌い」だけだったのでしょうか。


「善と悪」そして「闘争」そして「破壊」
「神は愛なり」という既成概念を取り外して見直すと全く異なった世界が見えて来ます。
今まで「堕落の所為」と考えていた事も 既存 の物ではないかと疑いが出てきました。
善悪闘争のカオス
我々人間には善悪闘争と言う概念が堅固に存在します。統一教会では常識的には、神は「善」である、堕落により「悪」が生じたと信じられています。?間違っていますか。しかし善悪という概念自体が相対的であり「悪」があって初めて「善」が存在できるのです。線形に連続した係数であり行ったり来たりするのです。中間の値が出ます。
善悪闘争概念においては「善」は自分の側であり、「悪」は敵の側となり悪者なので敵を倒し殺すのです。殺し合い勝敗を決するのです。はたしてこれは堕落によって生じた価値観、副産物でしょうか? 強烈すぎます。
私は、神様の内側に根本的な善悪と言う概念が創造の以前から存在していたと考えました。善悪の二元論です。
神様は単身者の時代から善悪闘争と言うゲームをしていたのかもしれません。そして勝敗を争うのです。
男の内の闘争本能は堕落によって生じたものではなく本来備わった本性と言えるものです。これを取り除いてしまえば抜け殻の様な男になってしまいます。闘争の勝敗は善悪という立場をとるのです。双方が「自分が善だ!」と言うのです。
特に男の子が好むゲームを見てみればほとんどが善と悪で戦う殺し合うゲームとなっています。そしてピストルとか刀という武器が好きなのです。「正義」善は悪を殺すのです、そして「破壊」です。 これは堕落の故ではないと考えるべきです。即ち悪とは堕落によって産まれたものでなく神様の本体の性質として創世以前から存在していたということです。即ち善悪闘争のバトルゲームで遊んでいたのです。スポーツも闘争と勝敗です。そして戦国時代が大好きです。
堕落していなかったら男の子も「おままごと」で遊びますか 違います、これは本姓です。男の持つ闘争本能なのです。これは競争とは違います。殺し合いなのです。


見えて来た「神様の正体」

お父様が語る神様の理想と事実の間に大きな隔たりができてしまったのです。
その中で最も大きな問題が「両班思想」であることを教えてくれました。イエス様の教示もそのことを言っているのです。
イエス様の十字架は神様の怖ろしい実体を明らかにしているのです。一般的な宗教においては、神様は「怖ろしい、怒り、復讐する」神というのが普通です。事実はこちらの方が正しいと言えるのです。
統一教会においては、「旧約の神」とされて当時の霊性が低いためにそのような姿しか相対できなかった、と言い、神様を本来の神に到達できない人間の側の責任として神様の絶対性を担保しているのです。しかし、イエス様のたとえ話は神様の実体の姿を問題化しているのです。
お父様は「こんな酷い事をしたのは天使だ、愛の神様にそんなことはできない」と天使の所為にしています。しかし、事実として怖ろしい神様の側面があったのです。
実際として現在でも神様は直接に人類の前に現れることはできません。
実体の神様は、もっと荒々しい方のようなのです。


今まで、本格的に扱われたことの無い「神様の単身時代」
それを白日の下に引き出してアカラサマニしなければならない時代となりましたか。
統一教会を初めとして主要宗教で「神様の単身時代」について言及する「宗教」はありません。
これはある意味で「天使」と同じで緘口令が敷かれていたのではないかと考えています。
「旧約聖書」を初めとして、どこを探しても創世以前のことを教えてくれるものは存在しません。
創世以前は「混沌」であり「無明」なのです。


「昼の神様 夜の神様」

しかし、ここに、単身時代 と 天地創造の間をつなぐ回答が出てきました。
神様の単身時代の探究を本格的に取り組むと、直ぐに出てきたのがお父様の語られた「昼の神様夜の神様」の御言葉です、
この御言葉の中に「夜の神様」とは天地創造以前の神様のことだ。という言説があるのです。これが「神様の単身時代」と重なりヒットしました。
これはお父様の御言葉が公的に存在し、現在の家庭連合の見解もサンクチュアリ教会の見解も基本的な定義の解釈は共通しているようです。
 周藤先生の講義 入山聖基
最近、ある食口が私に、「昼の神様、夜の神様」とは何でしょうかと質問しました。
その時は、「夜の神様とは創造以前の神様であり、昼の神様とは創造以降の神様である」と、修練会で学んだことでお答えましたが、今回周藤副会長の講義には、より詳しく説明されています。 その中で、「神様が『光あれ!』と言われ、天地創造が始まったその時から、同じ神様ですが、『昼の神様』となっていくのです」
    とあります。
サンクチュアリの講義によると「昼の神様夜の神様」が本格的にお父様から出てきたのは2010年あたりのようです。当時は享進様がお父様に直接侍っておられて最も詳しいと考えられます。しかし理解し難い内容の為に公式に出てくることはありません。そもそも「神様が二人いる」という理解し難いものなのです。。
私の考えでは、この2010年の頃には、お母様の不信が確定的となり、もう真の父母様としてお母様の再生は不可能となり再臨主としては失敗が確定した時期と考えています。正しくご自身の十字架を見据えて責任を果たす道を取られていると考えます。
その責任の一つとして この「昼の神様 夜の神様」の御言葉を残さなければならなかったと考えています。
「昼の神様 夜の神様」でネット検索すると初めにサンクチュアリの講義の動画がでてきます。恐ろしく詳しいです。
この「昼の神様 夜の神様」に関する内容を見て感動しました。どちらも創世記を根拠としているのです。
そしてそれはこの度私が「両班思想」の解読を通して辿り着いた結論だったのです。
この「昼の神様、夜の神様」という名前の出所が創世記だということに惹かれたのです。
それは天地の創世の時の事件であったということなのです。
それが、この度、私を神様の単身時代の解明という課題に引っ張って行きました。
考えてみれば、私のハッキングは「創世記」を根拠にしているのです。創世記はインスピレーションの宝庫です。


お父様の「昼の神様、夜の神様」の御言葉の出処は明らかに下記の創世記の一章五節この「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。」これが「昼の神様・夜の神様」という名前の元になっています。お父様は創世記第一章に答えが有る事を暗示して逝かれたのです。

このヒントを与えられて取り組むと、直ぐにすらすらと創世記一章の一日目の基本的な筋書き、神様を二つに切り裂くという過激な全体像が出てきました。
この創世記一章の一日目の中に「夜昼の神様」の誕生の過程が書かれています。
その前に、簡単にそこまでに至るまでの解説をしますが、あまり深入りしないようにします。
主題はあくまで「夜の神様」の証明です。
突き詰めると本論に進まなくなりますので。

①神様の単身時代
②「天地創造」の動機 発動機
③新「天地」構築の苦難路程 異次元変態



創世記の解釈に入る前に、そこに至る流れを説明します。
まず、その全体像を解説します。


神様の単身時代の様相
「天のお母様」基礎編 での解釈では、神様の単身時代は、悠々自適の趣味生活を過ごして来られた、と考えていました。しかしそうではなかったのです。遥か昔にはそういう時もあったようです。
結論から言えば、創世記には 神様の単身時代の事実、実体が正確に報告されていました。
1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
これが私が追及してきた回答でした。これが天地創造以前の神様の現状を垣間見た報告なのです。
一言で「闇」と言い捨てられています。「むなしく、混沌」の神様であったというのです。

創世以前の神様の深刻な現実
この記事に入る前に「神様の実体は愛ではない」のではないか、という不信が出てきていました。
ところが、創世以前の現実の神様は、私の想像を遥かに超えて悲惨な状態であったのです。
全知全能の神様が、いつしか、いわば逃れられない「無限地獄」に迷い込みその地獄から逃れられずに苦しんでおられたのです。
単身時代の神様の様相は、第二節で詳しく扱っていますが、とても人様に見せられるような姿では無かったのです。
そこで一番の問題は、姿かたちではなく、人格?的な問題でありました。かなり酷かったようで、第二節に「闇」と書いてあります。それが意味するものなのです。

神様が「自閉症」?
主要な創世神話のいくつかに、創世前の様相として、「鶏卵」のようであり中身はドロドロである。という記述があるのです。そしてその殻から出られない、というのです。
これは、神様の創世以前の状況を象徴的に見せられたものだと思います。
神様は自閉症のように殻に閉じ籠って出られない、これが単身時代の神様の様相だったのです。ただし神話は「混沌」を人格神として認識できません。


動機は、他体自覚
( このアイデアは自信がありません、想像の域を出ません。)
その出発点は「神様の動機」の解明がなされなければなりません。
「天のお母様」基礎編 https://ameblo.jp/okiamiami/entry-12396061570.html
この中で神様の天地創造の動機の世界と、構想時代の論理を立てましたが、その起点となる神様の事情、状況が間違っていました。しかし全体の流れは間違ってはいないようです。
これは基本的に「天のお母様」基礎編 と同じです。
神様、・・ある時、とんでもないアイディアが閃きました。
神様は「自分と同じものを作ったらどうなるだろうか」と言うことを思いついたのです。自分と同じように自分で考え自分の意思で動く人格と意志を持った存在を作るというアイデアです。それは「他者」を作ることであり、もう一人の神を作るという考えです。その相対理想を究極まで求めた、その行き着く先が「天のお母様」なのです。
神様は「天のお母様」という「夢」に憑りつかれてしまったのです。
神様の最終的な目的は「天のお母様」なのです。神様は、その夢のような「天のお母様」に突き動かされるようにして、その実現方法を考え貫いたのです。
もう既に、その「夢」から離れられなくなってしまいました。
そんな「夢のような光り輝くお嫁さん」を迎えるとすれば、それに相応しい尊敬されるような神様にならなければならない、と考えました。「やみ闇」ではマズイのです。自分勝手、自由気ままな生活をしていてはマズイと考えました。
神様が民の前に、そして何よりも奥様の前に現れる時“カッコイイ”・・神様が良いのです。ゴーストではマズイのです。天使は未だ男だからマシですが、エバはもっと、さらには「天のお母様」の前に立つ神様の姿を考えてみました。迎えるための最低の条件について考えました。


変わる事の出来なかった神様
神様は「夢」の実現の前提条件として、「他体」の前に最低限の体裁を整えなければならないと考えられました。
しかし、神様は死ぬほど努力してもご自身の性格(闇)内性を変えることはできなかった。
結論として神様には自分自身を「清く正しく美しく」という姿に作り替える事は出来なかったのです。
神様は、無限の間、ご自分の性格で悩んで来られたのです。それが混沌と虚無、闇だったのです。
何が人を変えるのか・・・原理の言うように愛は相対関係の中でのみ完成ができる?
なんと、全能の神様でありながら、ご自分の性格、人格、というものは望む通りに変えることが絶対に出来ないようなのです。前述のように無限地獄で苦しんで来られたのです。
普通に考えれば、全能の神様です、自由自在に悪人になったり善人になったり「百面相」の人格を楽しむことができると考えるのですが、そうではない、というのです。「超!石頭」岩の様な神様でした。


過激な最終策 神様自身を二つに切り裂くという結論
神様が最後の手段として出したのが、分離して、切り分ける、という強硬手段だったというわけです。信じられません。
闇の部分を「消す」ことが出来ないのなら「分けて」「切り離す」、これならば可能だと考えつかれました。
今までは、神様と言えば「いと高き尊い汚れなきお方」と教えられてきましたが、これが間違いだったのです。
創世以前の神様はというと、善も悪も、清い部分も濁った部分も、尊い部分も醜い部分も、全部がグチャグチャで混沌とした状態でした。
そこで、その中身を 全と悪、光と闇、のように分けて、それを二つに切り分けるというのです。それが「昼の神様 夜の神様」という二人の神様のことなのです。
神様は、自身では如何とも成し得なかった、無くしたいと考える部分を、もう一人の神「夜の神様」を作って、そちらに移して切り分けようと考えられたのです。
生身の人間としては想像もできないことです。御自分を半分に切り裂いて、二人の神様にするということです。有り得ないことです。
何故にそのようなことが可能なのか、また、そんなことをしてまで天地創造をなし、創ろうとした「夢」なのでしょうか。
それは、いくら全能の神様であるとしても尋常な事ではないはずです。
これも「一か八か!」命を賭けた大勝負、だったのでしょうか。
もし失敗したら、神様自身が粉々になってしまうようなことかも知れません。
相当の御覚悟があったのでしょう。
そして、この作業を「地」でした、と創世記一章に書いてあるのです。


以上が「創世」に至るまでの大まかな流れです。