チャリティライブは無事に終了しましたが、

その前後からある事に対して何だかなぁと思うことが続き、辟易として、どうにでもなってしまえと投げやりな感じになっていました。


そんな中、

善きサマリア人のたとえ


というお話を知りました。

有名な話のようですが、50歳になるまで全く知りませんでした。


   善きサマリア人のたとえ

ユダヤ人のある律法学者英語版が同じくユダヤ人であるナザレのイエスに永遠の生命を受けるために何をすべきかを問いかけた際、イエスが逆に律法にはどうあるかと尋ね返した。律法学者が答えた内容(神への愛と隣人への愛)に対しイエスが「正しい答えだ、その通りにしなさい。そうすれば生きる。」と答えると、さらに律法学者が「では隣人とは誰か」と重ねて尋ねた。これに対し、イエスは以下のたとえ話をした。

ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。そこに三人の人が通りかかる。

最初に祭司が通りかかるが、その人を見ると道の向こう側を通り過ぎて行った。次にレビ人が通りかかるが、彼も道の向こう側を通り過ぎて行った。しかし三番目に通りかかったあるサマリア人は、そばに来ると、この半死半生の人を助けた。傷口の治療をして、ろばに乗せて宿屋まで運び介抱した。そして翌日になると宿屋の主人に怪我人の世話を頼んでその費用を払った。

このたとえ話の後、律法学者に対してイエスは、このたとえ話で誰が怪我人の隣人となったかを律法学者に問い、律法学者が「助けた人(サマリア人)です」と答えると、「行って、あなたも同じようにしなさい」とイエスは言った。

(Wikipediaより引用)


私は無宗教ですが、このお話には「なるほど」と思わされました。


祭司もレビ人もユダヤ人のエリートであり特別な存在。一方、サマリア人は忌み嫌われた存在。

そのサマリア人の行いは、無償の愛です。

誰に頼まれたのでもなく、それを強制された訳でもなく、自らの意思で手を差し伸べた。


「汝の隣人を愛せよ」というのはよく聞きますが、隣人とは家のお隣さんじゃなくて、

敵でも瀕死だったら助けるという事なのだと分かりました。


でもね、そんなサマリア人だって、

限度を超えたら通り過ぎてしまうでしょうね。

いくら慈悲深くても限度がありますから。

何事もやり過ぎはダメです。


前にも書いたと思いますが、

一度でも口から出た言葉は取り消せないのです。

文字ならなおのこと、この時代はデジタルタトゥーとして残ってしまい、無かったことには出来ないんです。


気をつけた方がいいですよ。


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