メモ2021.8.26 ― 歌一首より | nishiyanのブログ

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メモ2021.8.26 ― 歌一首より


 
 
 ツイッターで岡井隆の次の歌に出会った。きれぎれにツイートした内容に少し手を入れて以下に挙げる。
 
 つきの光に花梨(くわりん)が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて/岡井隆『ネフスキイ』
 
 
上の句の風景と下の句の何らかの人間的出来事は無縁そうでどことなくつながっている。調べてみたら、岡井隆はクリスチャンの洗礼を受けている。また、「時が満ちる」という詩句は聖書(マルコ伝)にある言葉だという。しかし、「ずるいなあ」という言葉はそれを身近な人間的な事象に引き寄せている。
 
この歌にしつこくこだわってみる。カリンは垂れているイメージはなかったが、2つ目の画像(註.1)のは垂れているように見える。下の句は、「ずるいなあ」という親しみに満ちた言葉もあって女性と共にいて何か性的なものを初めに想像した。今以てそう思う。ネット見てもこの歌の解釈には出会えなかった。
 
表記について
現在ではもう主流の表記ではないルビ「くわりん」や「ゐる」が現在的な口語表現の中に混ぜて使われている。この歌を含む歌集『ネフスキイ』の刊行は、2008年11月。
一度吉本さんの「旧仮名遣い」が混じった若い頃の詩や文章関連で調べたことがあるが、「旧仮名遣い」から「現代かなづかい」に正式に変わったのは戦後すぐのことのようだ。吉本さんは1924年(大正13年)生まれで、岡井隆は1928年(昭和3年)生まれだが、いずれも「旧仮名遣い」で学んできている。表記とそれに慣れ親しんだ感性の自然さによって本人たちには自然な表記となっていたに違いない。だから、「旧仮名遣い」から「現代かなづかい」への変更に自分を合わせていくのは、戦争期から敗戦という社会の変貌に自分を合わせる、自分の居場所を築くのと同質のものがあり、いろいろ苦労があったものと思う。わたしが若い頃読んだ柳田国男全集の「都市と農村」を収めている巻が旧漢字、旧仮名遣いだった。とても読みづらく難渋した覚えがある。読者にとっても慣れない表記は抵抗がある。表現する側にとってもそのことは同様だと思われる。
ところで、現在における古い表記の使用は、それがあまり意識的ではないとすれば、この場合作者すなわち歌の中の〈私〉の古い感性の自然が滲み出しているものと理解するほかない。「つき」のひらがな表記は、風景描写と見れば「月」を指しているがこれが下にかかる喩の表現として見れば、「時が満ちてて」に呼応する月日の「つき」も込めたからひらがな表記になっているのではないかと思う。
 
これでこの歌について一応の締めくくり。上の句と下の句は言葉の流れが切れている(ようだ)から、「。」が来たのだろう。しかし、上の句は単なる叙景を超えて、たぶん10月末頃の成熟した黄色いどっしりとしている花梨だと思われるが、暗がりに青く垂れているその生命感(エロス)のイメージの波が下の句を覆い包んでいるように感じられる。下の句の人間的事象の具体性ははっきりと像を結ばないけど、それゆえにか、その代わりにか、イメージ自体としての具体性(あるふんいきのようなもの)が感じ取れるように思われる。
 
この歌を音数律から見ると、
 つきの光に/花梨(くわりん)が/青く垂れてゐる。/ずるいなあ先に/時が満ちてて
7・8・5・8・7となっている。しかも、下の句の8・7は、意味の流れの上からは「ずるいなあ/先に時が満ちてて」の5・10とも取れる。つまり、この歌は5・7・5・7・7の短歌的な音数律からはズレていて、下の句は散文的な表現あるいは語りの表現になっている。上の句の叙景と下の句のあるふんいきとしての具体性の表現、すなわち主観的な表現とが、切断と共鳴によってこの作品を歌にしているように見える。
 
固い言い方で結びとする。わたしたちが言葉の表現をする時、話し言葉であれ書き言葉であれ、言葉の表現の歴史性を背にして、その言葉の現場では意識的、無意識的に言葉へ表出し、表現として構成する。そこには、表現する者に照明を当てれば、今まで生まれ育ってきた彼の歴史的現在性とも言うべき意識的、無意識的な固有性が加担している。もちろん、そこには時代の精神的・表現的大気とも言うべき共通性も織り込まれている。それらを後から他者が読みたどるのは、とてもむずかしい。わたしたちの読みの当たり外れもあるだろう。しかし、わたしたち読者は、言葉のイメージの現場に立ち会おうとするのである。この喜怒哀楽に満ちた同じ現実世界の渦中を生きる者として、作品の固有性の中にある自分との同質性と差異性とに小さく共鳴しようとするのである。



(註.1) 家の畑の際にある花梨の画像 2021.8.19