10.日差し浴び・活動し・味わい・考え・生きる | nishiyanのブログ

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この列島の一住民です。(九州)
今までにない最悪の復古的イデオロギー政権を退場させるため消費(GNPの約6割を占める家計消費)を意識的に控える活動を広めることを開始。2017.12.14に休止。★ひとり継続中。

子どもでもわかる世界論のための素描
―宇宙・大いなる自然・人間界論

10.日差し浴び・活動し・味わい・考え・生きる


わたしたちは誰でも一度は自分はなぜ生きているのだろうかなど人の生きることの意味を問うたことがあるのではないかと思います。特に思春期と呼ばれる一般に不安定な時期にはそういう問いが湧き上がってくるのではないでしょうか。

そのことは、人類の歴史においても問い続けられてきた大きな課題のように見えます。人間が現在に到るまで世界論(世界観)を生み出し続けてきたことは、その人間的な活動の無意識的な面から見れば、人の生きることの意味の追究に当たると思います。なぜなら、そこには人の理想的なあり方や人と人の関係の理想などが含まれており、そのことの追究は人の生きることの意味の追究に相当するはずです。このように、わたしたち人間がこの世界に生きる意味は何かということは、簡単に答えることができない難しいもので、人類史の現在までの歩みがその現在的な答えであると見なすほかないように思います。

わたしたちはこの世界の或る場所に偶然のように生まれ、育ち、成長し、老いて、亡くなっていくように見えます。この点では、植物や動物と共通しています。さらに現在までの研究によれば、岩や山や星々などの無機的な自然もとても大きな時間のレベルでそうした誕生から死の過程を踏んでいくようです。ここで、「見えます」や「ようです」という断定を避けたあいまいな表現をしているのは、わたしたちが直接経験できない部分(自分の死)を含んでいたり、あるいはわたしたちの生涯の内に直接経験できないものに触れているからです。それを厳密に意識した表現をここではしてみました。

わたしたちは誰でも、乳胎児期や幼年期や少年期、青年期を通過して大人の現在に到っています。そして、それぞれの時期には外からはうかがい知れないそれぞれの独特な世界了解や感受や反応があります。つまり、そこを過ぎ去ってしまってから振り返ってみても当時の生き生きとした世界そのものとは出会えないという、内在的な世界そのものという直接性の世界があります。

こうして、それぞれの時期の〈現在〉を生きるわたしたちは、その〈現在〉を価値の中心とするような重力のかかった世界を生きています。こういう見方からすれば、わたしたちは絶えざる〈現在〉を生きているということになります。しかし、日々の生活を振り返ってみればわかるように、人には自分の過去を振り返ったり、将来のことを考えて現在的な準備をしたり等ということもあります。

わたしたちが歩み過ぎてしまった〈現在〉は、すでにその内在的な世界から抜け出してしまった過去として、良いことであれ嫌なことであれもはや生命感の直接性が絶たれた過去として、例えば幼年期や少年期としてわたしたちの現在から呼び寄せられて現れてくることがあります。たぶん、この〈現在〉そのものが〈わたし〉にとって満たされた十全なものであれば、〈わたし〉の過去は呼び出されないのではないかという気がします。もちろん、研究対象として客観的に幼年期や少年期を取り上げたり、あるいはまたわたしたち人間の自然な性向として過去を想起することはあるでしょうが、無意識的であれ過去を呼び出す場合には、〈わたし〉の〈現在〉の方に不全感などのなんらかの必然的な動機があるように見えます。しかも、呼び出されてくる過去は、過去そのものの直接性ではありません。〈わたし〉の〈現在〉に記憶として残り、〈わたし〉の〈現在〉によるなんらかの選択というフィルターを通ってきたものです。

そのことは、人の生涯の途上での振る舞いだけではなく、人類の歴史の途上においても見られることです。わが国の近代が上り詰めて昭和初期から戦争期にかけての「近代の超克」論議や奈良平安期という過去の文化や精神の呼び出し、これは退行的なものでしたが、社会の〈現在〉的な危機感が呼び寄せたものでした。ギリシア世界は、ヨーロッパという世界の根幹をなし、その発祥となる時期に当たっています。したがって、ヨーロッパでは何度かギリシャ世界が呼び出され反芻されています。これもまた、ヨーロッパ世界の〈現在〉の満たされなさや危機感が呼び寄せたものだと思われます。

このように、人も歴史も〈現在〉そのものを活動し・味わい・考え・生きると同時に過去を呼び寄せて未来に向けて現在を補填するということも行います。つまり、人も歴史も〈現在〉そのものに重力の中心の場を持ちながらそうした二重性を生きています。

人類の初期には人は洞窟やあるいはちっぽけな小屋のような建物に住まい、人間界はまだまだ自然の猛威のガードとしては簡単に吹き飛ばされるようなちゃちなものだったかもしれません。しかし、現在までの大きな時間の中で現在のように人間の力が自然を改変し人間界を増強させてきました。その当否は別にしても人間の生み出したものによる地球環境への影響力が云々されるようになったのは、人間界が増強した現在の段階を証しています。と同時に、それと対応するように人間力を増強させてきたことによって人間いうものが、人間の生涯とは別の大きな時間のスケールで推移する自然に対して一般に頭中心の世界となり、横着になってきているように見えます。まだそれ以降の世界がクリアーにイメージできませんが、これは終焉を迎えつつあるヨーロッパという文明の段階に対応したものだったと思います。この人間界や宇宙と呼ばれる世界における人間の「二重の根源的な受動性」(「4.世界内存在としての人間の有り様 1 」)という存在の有り様を内省すれば、人間の自然に対して芽ばえてきた横着さとは別の道もあり得るように思われます。

わたしたちは、イメージや頭の上では〈現在〉を振り切ったり、無視したりすることはできますが、わたしたちの生活世界というちっぽけに見える〈現在〉の個別的な具体性を離れて生きることは誰もできません。現在は、経済社会が社会の大きな重力となり、しかも競争・効率・成果・市場主義などの外来の経済イデオロギーが幅をきかせ、それらがわたしたちの日々の感性や意識にまで滲透してわたしたちを左右し、余りにも干からびた社会、干からびた人間というイメージが蔓延しているように感じます。わたしたちは、そんなせせこましいイメージや考えから、人間界を超えたもっと大きな世界を含めた世界の中へわたしたちを解き放ち、風通しを良くして、また新しい柔軟な〈人間〉や〈社会〉のイメージや考えを発掘して新たに構想することが切実な〈現在〉の課題であると考えています。 


※ これでこの世界論ための素描の一通りの骨格は、終わりになります。しかし、まだ付け加えたり補ったりという「補遺」として書き加える余地は感じています。