5.世界内存在としての人間の有り様・続 | nishiyanのブログ

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子どもでもわかる世界論のための素描
    ―宇宙・大いなる自然・人間界論
 

 5.世界内存在としての人間の有り様・続



 わたしたち人間のこの世界(宇宙を含む自然界や人間界)内でのあり方を前回考えてみましたが、もう少し別の角度から考えてみます。

 吉本さんの文章に、〈子供〉という概念に触れたものがあります。


 〈子供〉(児童)という概念は、厳密にいうと不可能にちかいものであろう。わたしたちは誰でも〈子供〉を体験してきたにはちがいないが、再現不可能なものとして体験してきた。あるひとつの概念が直接体験のほかに再現不可能だとすれば、概念として成り立たないものだとみなしてよい。〈じぶんの子供の頃は〉という語り方をするとき、わたしたちはいつも現在によって撰択された〈子供の頃〉をいうことで、じつは現在的な撰択そのものを指している。わたしたちがいつも眼の前にしているのは他者としての〈子供〉でしかない。観察をどれだけ密にしても他者としての〈子供〉から〈子供〉そのものを再現することは不可能である。ここからは〈子供〉という概念はとても成立しそうにない。もうひとつ〈子供〉を知る手段があるとすれば、いまも地上のどこかに存在しているかもしれないし、かつて記録や調査によって存在したことがわかる〈未開人〉の心性と行動から類推することである。そしてもうひとつは〈夢〉の結合の仕方と意味の流れに〈子供〉の心的な世界や、行動への衝動をみつけだすことである。〈未開人〉や〈夢〉のことが〈子供〉の世界に類比されるのは、その両方が幼稚な未発達の世界だからではない。言葉や行為の結びつきを支配する価値観の流れが独特なために、奇妙な膨らみ方をした独特な世界だからである。全体の均整がとれているかどうか、あまり問題にならないから執着する部分が不当に拡大されたかとおもうと、全体からみて重要なことが小さな手足のように、縮小されてしまうといったことが絶えず起こる。〈子供〉には当然の世界なのに、それ以外のものからは奇妙に変形した全体像にみえる。こういういい方は眼も鼻すじも整った理想の人間を架空の基準においたいい方で〈子供〉や〈夢〉や〈未開人〉の世界とおなじように〈子供〉以外のものの世界も、べつな具合に奇妙な歪み方をしている。ふつうわたしたちが狂気と呼んでいるものの言葉と行動の世界が、いわば〈子供〉以外のものの世界を極度に拡大したときの原型であるといってよい。
 (「付 童話的世界」P321-P322 、『悲劇の解読』吉本隆明 ちくま文庫)



 『悲劇の解読』は、1979年に単行本として刊行されています。その背景の流れを見てみると、『心的現象論序説』が1971年に刊行されていますから、その後にはその続きの「心的現象論」が『試行』に連載中です。つまり、上に引用した〈子供〉という概念 を巡る考察にはその背景として『心的現象論序説』と「心的現象論」の考察による研鑽があり、その成果が流れ込んで来ています。引用部は、まだ続いて、童話というもの、そして宮沢賢治の童話につなげられていきますが、切りが良いところで切りました。ここで、吉本さんの「あるひとつの概念が直接体験のほかに再現不可能だとすれば、概念として成り立たないものだとみなしてよい。」という言葉は、徹底して考え抜かれたうえの言葉と思いますが、ちょっと面食らいました。取りあえずわたしなりに捉え返せば、それ自体が抽象度を持つ概念というものにも、具体性の生命感が込められる自然な概念もあれば、そこから一段人工化した概念もあるのではないかと思われます。ここでは、その概念の成立ということには深入りしないで、わたしの話につなげていきます。

 吉本さんは、わたしたちがふだん何気なく使っている〈子供〉という概念に触れています。これと似たような概念に〈死〉という概念があります。ただし、〈子供〉は誰もが通過してきたのに、〈死〉は未体験という違いはあります。また、動植物や人間の生命活動の停止を持って一次的な〈死〉の概念とするならば、わたしたちはその〈死〉を向かい合う対象としては直接体験することはできます。(「一次的な」という意味は、例えば「文明の死」などの比喩的、派生的な二次的ともいうべき〈死〉の概念もあるから)しかし、〈わたし〉自身の〈死〉を直接体験することはできません。したがって、〈子供〉も〈死〉も現在からは直接経験できないという点では同一です。

 このような、わたしたちが現在からは直接経験できないというものは、わたし(たち)とこの世界(宇宙を含む自然界や人間界)との関わり合いの中にも存在しています。そういう意味で、吉本さんの〈子供〉という概念の考察は、この世界と人とが関わり合う関係の根源的なものとつながっていくものを内包しています。

 わたしたちが、現在その渦中に存在しているこの世界の成り立ちや人間の成り立ちはよくわかっていません。しかし、ふだんはそんなことを考えることもなく、日々の生活の流れに溶け込むようにしてわたしたちは生きています。

 この世界の成り立ちや人間の成り立ち、あるいは両者の死後の不明と同様に、人間の誕生と死はもやに包まれています。しかし、それでもそうしたことをほとんど気がけることもなく、またもっと身近なことでは、何十年後日に予想される大地震にもくよくよ思いわずらうこともなく、日々のこまごまとした生活がまるで重力場の中心のようにわたしたち一人一人は生活しています。ここには、この世界の成り立ちとそこにおける人間の有り様の基本型が潜んでいるように見えます。

 まず言っておかなくてはならないことは、わたし(たち)は、人類が途方もない時間の中で獲得し積み重ねてきた人間的な関わりの意識や了解の現在的な水準で、そんな水準の言葉で自動的に、あるいは無意識的に促されるように考えているということです。そこから眺め渡してみると、この世界は、この世界に生まれた〈わたし〉が存在するから〈世界〉はあり、したがって〈わたし〉の〈死〉は、〈世界〉の〈死〉を意味するように見えます。

 もちろん、他者の〈死〉とその他者の〈死〉後の世界の有り様という間接性から類推すると、〈わたし〉の〈死〉後も世界そのものは存在し続けるように見えますが、〈わたし〉の〈死〉とともに、わたしにとっての〈世界〉は死滅します。

 もうひとつあります。この〈世界〉は、〈わたし〉が存在する前にも〈別のわたし〉とともにわたし同様の関係にありました。それがあったからこそ現在の〈わたし〉が存在することに連なっていることになります。言い換えれば、この〈世界〉は、無数の〈わたし〉の連鎖した〈わたしたち〉とともに存在する面を持っています。

 ところで、わたしたち人間が、言葉を持たず植物や動物たちのように世界そのものの内に埋もれるようにして存在しているならば、わたしたち人間にとって〈世界〉はない、つまり対象として意識に上って来ません。これは大切なことです。しかし、わたしたち人間も今なお植物生や動物生を内包しているから、そのように世界内に埋もれている段階も通過してきたはずですが、言葉の獲得によってそこから半ば抜け出て、この世界内に浮上して来てしまいました。そして、この世界というものを対象として感じ考え、手を加えることができるようになりました。

 〈わたし〉が生まれる以前の世界や死後の世界は、〈わたし〉の直接は与(あずか)り知らぬ世界です。ただし、〈わたしたち〉と〈世界〉という〈わたし〉のつながり、つまり何世代にも及ぶつながりや人類史の中では、そのことは意味を持ち続けます。

 現在の自然科学は、人間や生命の誕生遙か以前にまで探査の視線や意識を向けています。しかし、人間の誕生からもっとさかのぼって生命が誕生してこの〈世界〉と関わり始める段階を突き抜けて、〈わたし〉と〈世界〉や〈わたしたち〉と〈世界〉ということは意味を成しません。同様に、未来のある時点で人類が滅亡(死)したとして、その死後の〈わたし〉と〈世界〉や〈わたしたち〉と〈世界〉ということも意味を成しません。つまり、それらは現実性の基盤のない空想に過ぎないことになります。

 それでは、現在の自然科学の人類以前やおそらく人類以後にも及ぶ世界の探査はどう捉えるべきでしょうか。つまり、それらの自然科学の探査を空想に過ぎないと見なさない、どんな見方があるでしょうか。先に述べた〈わたし〉の誕生前や死後が〈わたしたち〉の中では意味を持つように、〈わたしたち〉(人類)の誕生前や死後を探査することは、〈わたしたち〉(人類)、ということは〈わたし〉と言っても良いですが、そのこの〈世界〉での運命(有り様や不可避性)の現在的な姿を明らかにすることにつながるのではないかと見なすことです。このことは、大きな時間のスケールで科学が自然との出会いの深度を深めていくことによって、人間の運命の現在的な姿を次々に更新していくだろうと思われます。

 わたしたち人間は、前回述べた「二重の根源的な受動性」の負荷を受けながら、遙か太古から自然界と関わり合い、自然を引き寄せながら、人間界を築き上げてきました。その過程で、古代インドでは仏教、ヨーロッパ近代ではヘーゲルやマルクスなどの偉大な思想家や思想が生み出され、人間界の主流に対する内省が加えられることもありました。これらの思想や思想家たちは、そのような具体的な作者名や作品名があったとしても、たぶん、人間界の主流が積み重ねられ来た頂で、その主流が、内省する作者や作品として押し出したものだと捉えることもできると思います。つまり、人間の歴史は、例え血にまみれていたとしてもそのような内省を加えつつ流れる大河のような主流を形成しているということです。

 そして、一方でそういうことでありつつも、わたしたちは、重力の中心が日々の生活世界の「現在」にあり、絶えず現在を生きていくという風に存在しています。そうして、半ば以上が無意識的であるようにわたしたちの生存はあり、日々諸活動をしています。わたしたちのこの世界における生存の有り様は、絶えざる現在性を重力の中心として、他方では過去や少し先の未来などに思いを馳せたり内省を加えたりもする、という二重性としてあります。このことは、人間の形作る集団や組織にも同様に言えることです。