ツイート集2016.9 | nishiyanのブログ

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この列島の一住民です。(九州)
今までにない最悪の復古的イデオロギー政権を退場させるため消費(GNPの約6割を占める家計消費)を意識的に控える活動を広めることを開始。2017.12.14に休止。★ひとり継続中。

・「内臓感覚」ノート 340・「おんぶ」ということ
(『読書倶楽部通信』松本孝幸)
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/naizou340.html
 
私たちの日常のコミュニケーションの無意識的な基盤は、人々の感じ方や考え方の最大公約数のような場所にありそうだ。その基盤の上に、基盤への共鳴や異和を放ちながら個々人の固有性が織り込まれる。
 
↓ しかし、性別や地域(外国を含む)などが異なれば、その基盤が揺らぐこともあるだろう。この話の「おんぶ」は、「その基盤が揺らぐこと」を突き抜けた基盤の揺らぎ、もっと厳密に言えば、遙か太古の人間の感じのような、とても古い層の基盤の浮上と見なせるかもしれない。
 
 
 
・萩原朔太郎の『詩の原理』を2~3回読んだことがある。彼は表現の価値付けとして詩が第一位だとしている。思うに、散文は、作者が語り手や登場人物を幻想の舞台に派遣して、真実味という彼らの現実的な有り様と妥協しつつ作者の選択や批評を込めながら一つの作品世界が造型されるという間接性にある。
 
一方詩は、朔太郎の言葉で言うならば、作者が生存の深みで感受する「情動の」表現の直接性にあるからであろうと思う。例えてみれば、わが国の近代に輸入されたハイカラなギターをとてもうまく弾きこなすように、朔太郎の詩論は近代初期の批評の水準としてみても群を抜いて優れていると思われる。
 
 
 
・生前退位について (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2016/09/10_0832.php … 
(1/3)天皇の「生前退位」については、私に言う言葉はない。どのくらいかかるかわからないが、天皇が私たちのようにただの人になるのが望ましいと思うからだ。それが真の平等の大きなきっかけと思う。
 
(2/3) 明治維新も天皇の権威を「虎の威を借る狐」のようにまとって政治利用し、水戸黄門の印籠を行使することによって敵に対する優位を獲得した。もちろん、そのことが互いの戦死者を少なくしたということもあったろう。それに類するものは名誉会長制度などこの社会にもまだ残存している。
 
(3/3) この内田樹の「全面改憲の最後のハードルになるのは野党ではなく、天皇とホワイトハウスでしょう。」にはちょっと疑義がある。それは天皇の政治利用の逆バージョンではないか?どんなに頼りなく見えても、わたしたち大多数の生活者(主権者)が主人公なんだから。
 
 
 
・覚書2016/09/10
例えば、柳田国男の『遠野物語』に書き留められた遠野という村落に残り生き延びてきた説話を私たちの現在とは無縁な迷妄と見なすとする。しかし、翻って私たちの現在も同様の迷妄に囚われていて、その迷妄を無意識のように気づかず日々呼吸しているのは確かだと思われる。
 
覚書2016/09/10
その現在的な迷妄とは、現在の社会や集団的な意識に張り巡らされているものすべて(「共同幻想」)である。それは、この列島の人々が獲得した現在的な達成であると同時に、また様々な矛盾を含む桎梏でもある。遠野の物語の世界でもその事情の質は同じと思う。 

 
 
・9/14付けの朝日新聞記事、読者の投稿「改憲派から護憲派へ3点質問」とそれへの数名の回答を読んだ。なるほどねという良い回答だと思った。今は、政治家や政権が自分たちの存立と古ぼけたイデオロギーのために都合の良いように憲法をいじろうとしている異常な状況である。
 
現下の北朝鮮に限らず他国のことに触れたり対外的な行動をすることは、いろんな形の外交という国家の自然な行動であると同時に国内的な大多数の大衆に対する制圧(コントロール)を意図している。わたしはそんなコントロールに乗ってはしゃぐことはしない。
 
私の場合は、イデオロギー対立に陥らないために原則として他国のことや対外的なことはいっさい語らないという「判断留保」(エポケー)すべきだという考えである。つまり、国内的なわたしたち生活者住民の諸問題本位という考え方である。ここでなら誰もがイデオロギーを脱げる。
 
 
 
・nishiyanさんが枡野浩一公式をリツイートしました
ほう、啄木はこんな殺意の表現の作品も作ってたのか。現在の不思議な事件の殺意と似ているが、おそらく啄木の場合は暗さの病、現在は透明な空虚の病だろう。いずれも関係の病の表現ではある。私たちもふとかすめる時はある。
 
○石川啄木
1.
一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと
 
2.
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな
 
 
 
・(1/3)「もんじゅ」話題に関連して単に経済的な問題として考えてみる。新聞記事(2016年度予算から)によると、その年間の維持管理費など185億円、人件費29億円、固定資産税12億円らしい。大雑把に見て200億円ほどが今ではほぼ無意味な事業や職員などの給与に充てられている。
 
(2/3)この「もんじゅ」関連は、現状の無意味さから見て、小規模ながら #ベーシックインカム に相当する一種の贈与経済と見なせるのではないかと思う。太古には、担当者が取った自然の富(植物や魚やクジラや蜂蜜など)を集落全員で分かち合った段階の社会があったようだ。
 
(3/3)現在では、企業や個人が生み出した経済的な富の総和、つまり社会的な富を贈与によって分かち合う #ベーシックインカム という贈与経済の可能性や不可避性が浮上しつつある。人間力の生み出したAIや生産機構などの省力化がさらにそれを促すだろう。自動運転はその動向を象徴している。
 
 
 
・「ニセ科学」というのがある。それと対立的に「科学」を自称する者たちがいる。そんな対立世界は、科学や言葉の普遍性とは何の関係もない。ただ、現在の段階の〈科学〉がいろんな迷妄や局所的な見方を含みつつスペクトル帯のように存在しているだけだ。そして深化して行く。学者ならまじめに研究せよ。
 
同様に、相変わらず「右派や左派のイデオロギー」という「イデオロギー」が、生き延びている。そんなものがあるわけがない。ただ、私たちの重力の中心である生活世界があり、生活者住民の社会や政治に対する様々な言葉にならない無数の〈否〉がある。これらを隠蔽するものとしてそれらは機能している。
 
 
 
・SWITCHインタビュー 達人達(たち)「上橋菜穂子×齊藤慶輔」
NHKEテレ 2016年3月26日 から、作者・物語・作品について
 
(1/3)修練を積んでいるから巫女やシャーマンには〈神〉の言葉がふいと降りてくることがあるのだろう。同様に、作家は物語世界の造型の修練を積んでいるから、その修練の水圧からふいとイメージや場面が浮かんでくることがある。上橋菜穂子はそのような体験を語っていた。
 
(2/3)これは作家に共通する普遍的なものだと思う。さらに、どんな専門の分野でもあり得ることだ。そうして、〈神〉に向かっては、巫女やシャーマンが〈神〉の言葉を聞き取ったり、対話したりするように、〈物語世界〉に向かっては、作家たちは降りてきたイメージや場面を手がかりに物語世界に
 
(3/3)語り手や登場人物たちを配し、彼らの言葉を聞き取ったり、対話したりしながら、物語世界を造型していくことになる。出来上がった作品を読んでこれ誰が作ったのだろう、と作品に対して他者感があると上橋菜穂子が語っている。つまり、作者以外にもいろんなものが作品形成には関わっている。
 
 
 
・「ニュース逆さ読み」(中村礼治)
「インターネットと優越感」(9月25日)
http://blog.livedoor.jp/nkmrrj04fr/archives/52406691.html
 
ううん、微妙に違うような気がする。「罵りや蔑みの言葉」や「優越感」は、ネットやSNSのもたらした派生物に過ぎないと思う。→
 
もちろん、ネットとSNSという仮想空間とそこでの関係づけがもたらした関係の自由度の拡大と関係の距離の収縮と匿名性。それらがかつてない「罵りや蔑みの言葉」を生み出したということももちろんある。私もそうしようとつんのめりそうになったことがある。人間認識と人間性が問われているのだと思う
 
しかし、「罵りや蔑みの言葉」や「優越感」は負の派生物と思う。つまり、ネットとSNSという仮想空間のもたらす本質的なものではなく、淘汰されるべきものに過ぎない。「罵りや蔑みの言葉」を駆動し放射し続ける者は、必ずその反作用に自ら蝕まれていくと思う。このことは常識で分かることだと思う。
 
ネットとSNSは、「専門家」と「一般の人びと」が同列に関係づけられ、望めば対話や表現が可能となった。この前提として、純文学と大衆文学(エンターテインメント)の垣根の流出に象徴される価値序列の崩壊があった。無用な垣根や閉域が取っ払らわれて平らになってきたという状況がある。
 
 
 
・『ハンディキャップ論』(佐藤幹夫 洋泉社新書 2003年)を読み終えた。著者は、弟が「障害」を持っていたことと養護学校の先生をしていた体験から、「障害」を負った子やその家族への能う限りの内部からの視線や言葉を行使し得ていると思う。つまり、彼らに開かれたほんとうの感じの具体性の言葉だ。
 
本の題名は、当事者にとってもそれ以外の人々にとっても、「障害」や「障害者」に代わる柔らかでしっくりする言葉をわが国の社会が生み出し得ていないということから選ばれたのだと思う。著者の言葉の夢は、人としての同一性にたどり着きたいのだと思う。おすすめの一冊です。
 
先般の障害者殺害の容疑者や何人かの文化人の差別的な発言は、貧しいイデオロギーの視線や言葉しか持てない貧しさだ。この場合のイデオロギーというのは、現場の人々の日々の暮らしの内面、死ぬ思いや葛藤や悲しみや喜びという生活の具体的な手触りに触れ得ない、外部からの乾いた視線ということ。
 
 
 
・近年、「家族葬」という言葉を聞く、また、一度親戚ので出たこともある。言葉などの流行と同じく、どこから始まったのかよくわからない。ただ、家族の現状や意識の変貌から、もうこれでいいか、と始まったのかもしれない。葬祭業者もそれを感知して「家族葬」という言葉が流布しているのかもしれない。