表現の現在―ささいに見える問題から 22 | nishiyanのブログ

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表現の現在―ささいに見える問題から 22 (人類の言葉以前の痕跡)


 現在の私たち大人に流通する言葉を、言葉以前の乳胎児期の母 ― 子のコミュニケーション(註.吉本さんによれば、言葉に拠らない「内コミュニケーション」)体験に対応させたり(「表現の現在―ささいに見える問題から 20」)、言葉の発祥期に関係づけたり(「表現の現在―ささいに見える問題から 21」(語音の問題から))、試みてみた。いずれに関しても、個の遠い遙かな発生期の時間が個の中に保存されていて、いまだその発動の機構は不明だとしても、表現において発動されてくるものと見なした。

 ここで考えてみたいのは、人が人類として言葉(言葉のようなもの)を獲得して登場する初期やそれ以前の人の遙かな時間についてである。


 言い方で載ったとわかるらしい妻
         (「万能川柳」2016年06月20日 毎日新聞)



 この作品は、夫である作者が妻と何か話していたら、「自分の作品が新聞に載ったよ」と言わないのに、その「言い方」で夫の作品が新聞に載ったんだなと察知できたという内容だろう。顔の表情や言葉のふんいきやあるいは以前にもそういうことがあって、察知できたのであろう。これをもっと突き詰めて純化していったのが恐らく「霊能者」という人々の感応・察知の世界だ。現在では、「霊能者」のような鋭い感能力や察知力は大多数の人々は持てなくなっていて、それらを非科学的と一蹴する「科学的」という見方もある。しかし、もう現在ではよくわからなくなってしまっているが、遙かな太古にはそのような自然の世界に鋭く感応したり、輪廻転生ということを信じたり、死後の世界の実在を信じるという人類の段階があったことは確かである。そして、その世界イメージは、当時にあってはわたしたちの現在と同様に自然なものだったはずである。

 現在でもそれに類する世界イメージや世界観の内にわたしたちは存在しているが、太古のそれとは断絶した異質な世界になってしまっている。このことは、太古の〈科学〉(知見)が迷妄に近いということを現在までの〈科学〉が明らかにして分かってきたせいでもあり、また産業社会の高度化と対応して脳が中心化してきた考え方のせいでもある。しかし、それでもなおわたしたちの心の深層には、太古の世界観の残骸が保存されているように見える。さらに、迷妄ではないかと見なす太古の科学を現在の科学から新たに捉え直す可能性もあるように思われる。

 ところで、この作品に見られる言葉以前の察知のようなものを、個の誕生からの時間で言えば前に追究した「乳胎児期の母―子のコミュニケーション」に対応付けられが、個の時間との対応付けをしないならば、人が人類として言葉(言葉のようなもの)を獲得して登場する初期やそれ以前の人の遙かな時間と対応付けるほかないだろう。

 つまり、人は途方もない時間をかけて言葉を獲得するようになる以前には、これまた途方もない時間を植物生や動物生として触手を働かせ合って感応し、察知し合う世界を生きていたのだろうと想像する。そうしてそれは、胎児が母親の胎内で成長していく過程で、最初は魚類、そして両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類へと人類の進化の過程を短時間で反復するように形を変えていくと三木成夫が明らかにしたことと対応して、私たちの心の深層には人類の初期やそこに到る言葉以前の遙かな道程も保存されていると言えそうに思われる。それらの道程は、時間の規模において近代社会の数百年の道程と比べて比較を超絶している。ということは、現在の人類や個の基層部分を形成していると言えると思う。しかも、それは現在的に発動され続けている。