日々いろいろ―普段着で 国家と生活者について | nishiyanのブログ

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この列島の一住民です。(九州)
今までにない最悪の復古的イデオロギー政権を退場させるため消費(GNPの約6割を占める家計消費)を意識的に控える活動を広めることを開始。2017.12.14に休止。★ひとり継続中。

  (この列島の遺伝子を持つ生活者から見て、わりと普段着で国家について。)


 西欧近代由来では、人間は自然状態は人々が互いの利益を露骨に主張し合う〈悪〉そのものだから、社会内の種々の利害の調停機関が必要であり、それが国家であると見なされている。それに加えて、現在的に見て国家は外に向いては、国々の個別利害を中心に携えながら世界中に通じる普遍的な利害にもいくらか貢献する〈外交〉というものを他の国家に対して行っている。

 この世界には、アイヌや琉球王朝以前までの南島など国家を生み出さないものもあったが、主流は国家形成に向かった。国家以前は、集落の宗教・行政組織があり、それは集落のよりよい生活のためだったのは疑いない。わが列島での統一的な国家の形成は、産業としては富の蓄積が可能となった農耕社会が本格的な段階になってきた古代に当たっている。

 しかし、わが列島の歴史を眺めてみれば、現実の組織としても、一般民衆から見た国家への距離感や意識としても、国家とはわたしたち生活者住民とはあまりにもかけ離れた遠い存在であった。ちょうど中国の「鼓腹撃壌」(こふくげきじょう)の老人の次の言葉(意識)のように。 

 「日が昇ったら仕事をし、日が沈んだら休む。井戸を掘っては水の飲み、畑を耕しては食事をする。帝の力なぞ、どうして私たちに関係があろうか、いやない。」(「鼓腹撃壌」) この言葉は、今なおアジア的な遺制の遺伝子を持つわたしにも親しい言葉に感じる。
 
 日々の小さなことに終始して生きるわたしたち多数の生活者住民に対して、政治意識を持った人々や政治や文化上層にいると自認している人々は、意識が低いとか政治意識がないとか批判的に言うのが今もある。おそらく官僚層や政治家たちの意識にもそれが今なお大きく残留しているだろう。しかし、それは支配上層の大いなる誤解による横着にすぎない。歴史の起源から照らし出せば、集落の行政も国家もその住民の代行に過ぎないのだから。だから、わたしには、この老人の言葉が理想的に見える。

 たぶん西欧諸国と比べて、あるいは東南アジア諸国と比べて、様々な社会的に不当なことがあってもわが列島の住民たちはめったに大暴れしない。無用な血が流されないのはいいことではある。しかし、このことにわたし自身も含めてそれではダメだなとも思うが、つまり自己主張は、あいまいさに流すことなくもっとはっきりきちんとすべきと思っている。

 しかし一方で、わが列島の住民たちの「帝の力なぞ、どうして私たちに関係があろうか、いやない。」という国家や政治や権力への歴史的な遠い距離感を背景とした有り様こそが、その存在の総体こそが、その全重量において、国家や政治や権力への無意識的な批判になっているはずだ。と言っても、歴史のある段階で生み出されたものに過ぎない〈天皇〉や〈(象徴)天皇制〉も、わが列島の住民たちの多数の尊重の意識によって支えられている。わたしは、真の〈平等〉という理想、それへの大きなきっかけとして天皇一族は気楽な普通の住民になるのが望ましいと思っている。つまり、現在のあいまいな象徴天皇制は廃止すべきだと思う。しかし、これは農村の死滅と対応するように今後もさらにゆっくりと薄れていくに違いない。親しい他人でもなく、いろんな意図を背後に秘めた行政や国家の役人などでもなく、大災害時におけるあの無私にも見える天皇の現地での振る舞いは人々に無上のものと思われているに違いないということはわかる。したがって、現在の〈象徴天皇制〉の行く末を決めるのは、大多数の住民たちの〈天皇〉に対する尊重の意識の消長にかかっている。これは流れに任せればいいと思う。

 明治期そして敗戦後の二度にわたる西欧化の大波を受けて、わが列島住民の表面的な意識ずいぶん変わってきている。しかし、意識の根っこにある部分は何千年にも及ぶ年輪を持つもので、根強くわたしたちの社会意識や政治意識を規制しているように見える。それは国家や政治や権力に背を向けて生きるわたしたち生活者という有り様である。もちろん、この根強い遺伝子が〈批評性〉を獲得しなければ、またわあっと戦争体制に組み込まれるようなこともあり得るわけである。また、現在の消費社会では私たち生活者はGNPの6割を占める家計消費という経済的な力を知らぬ間に持たされてしまい、その家計消費を控えることで政権や政治批判することができしかも政権を打ち倒す経済的な力を手にしてしまったが、この力を自覚的に行使し得るようになるのは、まだまだ未来のことに属しているのかもしれない。そして、わたしたち生活者住民が、〈批評性〉を獲得するということは、政治の世界で例えれば、外力のアメリカ頼みやアメリカすがりつきを止めて、自立した個人として自分の頭と力で判断し行動することという単純な原則に過ぎない。

 国家は、外交において二重のことをなしている。中国や北朝鮮のあれこれを指摘したり批判したりするとき、一方でそれらの国の方に国家の顔や意識として向けつつも、もう一方ではそのことを国内社会のコントロールや支配に利用しようとする、国内に向かう顔や意識も持っている。

 その尻馬に乗って嫌中嫌韓などのイデオロギーに憑かれている人々もいる。したがって、わたしたち生活者住民としては、国家の尻馬に乗らないためにも、無用な対立を避けるためにも、さらにもっと本質的には〈生活者住民〉という生活世界を離脱しないためにも、考えたりするのはいいけど、生活者としては国外のことは一切語らない論争しないという留保が必要だと思う。そうでないと、イデオロギーを交えた不毛な対立にしかならない。

 国内問題こそすべてだ、として町内会の話し合いのように論争はなされるべきだと思う。きみはこの列島住民全体の幸福を願ってそれを提案しているのか?ごく一部の人々の利害のために詭弁を弄しているのではないか?などなど。外力を頼むことも外力に逃げることもできない中で、一昔前の中流意識花盛りの頃から暗転した現下のこの荒れ果てた社会状況で、その再生のイメージが、この社会に属する住民たちの平等な権利として、語られなくてはならないと思う。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)