表現の現在―ささいに見える問題から 21 | nishiyanのブログ

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  表現の現在―ささいに見える問題から 21 (語音の問題から)


 乳児が言葉を獲得していく初期の段階で発する言葉のようなもの、例えば「ばぶばぶ」などは「喃語」(なんご)と呼ばれている。それ以降でもまだ言葉を覚えたての小さい子どもがしゃべる言葉はよく聴き取れないことが多い。しかし、それがくり返されていくうちにわたしたちも小さい子の言葉に慣れていって、その言葉が何を指し示しているのかをわかるようになる。

 例えば、「いただきます」と普通表現される言葉を、小さい子どもが「いたーきまーす」と言ったとして、小さい子どもが食事する時の慣習という十分な認識の下にその言葉を発しているかどうかという問題はあり得るとしても、わたしたちは両者の言葉を同一だと見なしている。このようなことは小さい子どもの言葉に限らず、大人の世界でもある。文字で記されるとまったく同一に見える言葉の「はし」と「はし」でも、言葉として喋ってみるとアクセントやイントネーションの違いなどがある。わたしたちはそれらも同一だと見なしている。

 「あざーす」は、お笑い芸人が広め始めたらしいが、「ありがとうございます」の省略あるいは転訛の表現と言われている。日本語には省略表現が多いように感じるが、この場合は省略ではなく語音の縮退として転訛と見るべきだと思う。小さい子どもの言葉の「いたーきまーす」は、「いたーきまーす」=「いただきます」と同一と見なした。しかも、この「いたーきまーす」は小さい子どもの大人の模倣性を多分に含んだ自然な言葉の表現である。一方、「あざーす」も、「あざーす」=「ありがとうございます」で同一のことを指示しているが、小さい子どものように自然ではない、意識的な表現になっている。しかし、「あざーす」というこの意識的な語音の縮退には上記のような無意識的な幼児期の言葉の自然な経験が反芻されているのかもしれない。


 好きと言うかわりに月と言ってみる
         (「万能川柳」2016年01月21日 毎日新聞)



 この作品は、今まで触れてきたような語音の問題をモチーフとしている。この作品中の「わたし」が、好きな相手を今目の前にしているのか、いないのかは確定できないとしても、「好き」と言いたいところなのに「月」と言ってみたということである。相手には「好き」と伝わったか「月」と伝わったか、あるいは相手がよく区別できない「好き」と「月」の混合として伝わったか、はわからない。「わたし」の気持は、相手を「好き」という点で曖昧さはないのに「月」と言ったのは、「わたし」の恥じらいの消去までは行かないかもしれないが、恥じらいの感情の中和にはなっているのだろう。

 この作品の、スキ→ツキ→〈好き〉(月・好きの二重化)という表現は、「わたし」の恥じらいの感情の中和をもたらすだろうという作者のユーモラスな意識に支えられている。そして、この作品を形作る作者の表現の過程にも、作者の遙か幼児期の言葉の自然な経験が無意識的に反芻されているように思われる。

 最後にひと言付け加えれば、わたしたちは絶えず現在に当面して生きているけれど、このようにその現在には、〈起源〉からの積み重なりの経験がわたしたちのどこかに仕舞い込まれていて、現在の行動や表現に遙かなところからの色合いのように無意識的に付加されていると思われる。