2020年12月21日
盛大に行われた
中村憲剛引退セレモニー
多くのファンに惜しまれながらの引退
その最後の勇姿を見守るファンの中に
彼を愛する陸前高田市の人々が多くいた
そして先月
中村憲剛は再び陸前高田を訪れていた
陸前高田に行くと毎回少しずつだが、
前に進んでいることを感じるんです。
新しい建物ができて、
徐々にですが町並みが形成されていく。
どんどん町が新しい形になっていくんです。
スポーツ施設にしても、野球場ができていたり、
人工芝のサッカー場ができていたりして
流されてしまった前の町とは
別の顔を持ち始めている。
それでも、空いている場所がまだまだ多いんです。
2011年に僕らが初めて陸前高田に足を運んだ時は、
本当にあたり一面が瓦礫の山でした。
奇跡的にいくつかの建物が残っていたくらいで。
あの頃を思い返せば、
『10年でよくぞここまで』
という思いもありますけど、
それでもやっぱり
10年では埋まり切らない場所もあれば、
重い記憶もあるんだろうなと感じざるを得ないんです
中村憲剛と陸前高田市を結び付けたもの
それは「算数ドリル」800冊
クラブが川崎市内の小学校に向けて
製作・配布していたもの
震災ですべてを失ってしまった子供たちに
教材として算数ドリルを送るとクラブが決めた
川崎フロンターレの顔だった中村憲剛
ドリルの表紙を飾っていた
震災のあと、自分としても何かをしたい、
力になりたいという気持ちは強かったんです。
だから、『自分にできることがあるなら』と、
家まで算数ドリルを持ってきてもらったんです。
自分がサインを書くことで、
子どもたちが少しでも笑顔になってくれるならば、
という思いで一心不乱に書きました
それがきっかけとなり
震災から半年が経った2011年9月
中村は初めて陸前高田へ足を運んだ。
川崎フロンターレのすべての選手たちが参加して、
サッカー教室を開催したのである。
しかし
そんな中村憲剛にも激しい葛藤があった
自分たちがやっていることは、
果たしてみなさんの助けになっているんだろうか
僕らが現地に行って何ができるのか、
そもそも行っていいのか......
自分の存在意義について、
疑問を感じているところがずっとありました
今でも覚えていますけど、
現地について地元の先生が
当時の映像を見せてくれました。
その時に、
地元の人たちの声を涙ぐみながら
話されているのを聞いて、
それぞれが震災というものを
目の当たりにしたんです。
実際に現地に行き、見聞きしたことで
震災というものが
一気に目の前に飛び込んできたんです。
それでも、陸前高田の人たちが
『今日はみなさんが来てくれるのを
すごい楽しみにしていたんですよ』
と言ってくれたんです。
それで、どこからともなく
『俺たちが暗い顔をするわけにはいかないよな』
『今日は元気よくやろう』
と声をかけ合って、
僕らは子どもたちの前に立ったんです
陸前高田の止まっていた時間は
そこから堰を切ったように流れ出す
もちろん中村憲剛も
みんなの復興への思いは
大きくうねりを上げる
2015年
川崎フロンターレと陸前高田市が友好協定を締結
いちスポーツクラブが
地元以外の都市と協定を結んだ前例はない
川崎フロンターレのホームゲームでは
陸前高田ランドと称したイベントが開催され
物産販売が行われるようになり、
今では名物イベントとして人気を博している
昨年には
中村憲剛をはじめ全選手とファンによる
コメ作りも行われ、
その米から作られた清酒の販売も行われ
即日完売したと言う
もう、支援ではないのかもしれない
今では、相互で支え合う段階に
なってきているように思う
僕らが一方的に何かをするのではなく、
両者で意見を交わしながら、
これからも、さらに発展していければと思っている
中村憲剛は
今年からはFRO(フロンターレの広報大使)として
チームに貢献すると言う
中村憲剛が歩んできた10年
人生の挫折、引退への決断、
支援への激しい葛藤、陸前高田市との絆
振り返ることなく
今日も歩み続ける
Written by Kaz Okayasu
Written by Kaz Okayasu



