発言力のある人がその世代になると、だいたい起きる問題、という話。 | おかんのちゃぶ台☆しゃべりと歌でココロにアプローチする主婦 ・ ババーランド(仮)代表

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あなたに、伝えたい。
ちゃぶ台で紡ぎ出されるコトバたち。
1968年生まれの、女 兼 妻 兼 母 兼 主婦
心理学・セラピー・カウンセリングあたりを得意技に
オールマイティに暮らしています。
そんな"おかん"の日々の雑記。すべては、愛ですよ、愛。

2月18日木曜日



の両記事が、目に入りまして。
あえて、私は何か言うの避けてたんですけど。
そしたら、今日、オトモダチKちゃんが、「親についてのキモチ」「子どもを産まない育てないこと」について書いてたので…。
アンサーブログになれば…なんて、エラソーなことは、今日は言いませんm(_ _)m

世間的には、センシティブと言われるこのテの話題。
私も、この、おふたり、それから、オトモダチKちゃんの発言を受けて、思ったことをば。


実際、私は、あんまりセンシティブと感じていなくて、基本的には相手に合わせています。
「このテの話は傷つく」と言う人とは話しませんし、
「あーゆーのムカつくよね!」と言う人には「まあまあそこは」となだめたり。
熱く語る人とは激論を交すこともあります。


私の生い立ちなどは、またの機会に、ということで、
今現在、この方々のお話を読んで思うのは、まず、
「こういうことを、堂々と発言できて、いい世の中になりつつあるのか、それとも、生きづらいから言わなければならないのか?」
という心配です。

私自身は、先程も言いましたが、その方が、どのような生き方を選んでいても、ほとんど抵抗がないんです。
「子育て大変」そうよねー、
「子どもできなくて」そう…とにかくカラダは大事にねー、
「結婚してないけど」あらそう、
てなもんです。
たまに怒られることもあります。どうも反応があっけないらしく…すみません。
(怒る人は、たぶん、「とっても大変なのよ!察して慰めなさいよ!」とどこかで思ってるんでしょうね、ごめんなさいね、察してあげられなくて…)

結婚2回、離婚1回、子ども(出産)3人。

そんな、普通の子持ち主婦が思うのは、

ウチは子どもがいるけれど、いわゆる贅沢はできない。

子どもを持たないおウチは、それよりは自由。

だから、どちらも、イーブンなんです。


私は個人的には、子どもなし家庭の人とも、平気で子連れで遊んだりします。

結果的に「選ばなかった」と言わざるを得ない、この社会が疑問です。


だって、
私が、こうして家庭でヒーヒー子育てしてる間、彼女たちは、男の人と同じように、または少しは緩める人もいるでしょうが、でも、働いているのです。
「社会的役割分担」
だとばっかり思ってました。
だから、
少し前までは、逆に、家庭におさまる主婦の方が、肩身は狭かったのですよ。

それが、なんだって、
「子どもを持たなかった」
「子どもを持てなかった」
と言わなければならなかったのか。



聞いて欲しいと思うようになってしまったのか。


それとも、
ひと頃の、有名人の育児ネタと一緒なのかな?



普通って、なに?
それって、幸せなの?
それじゃ、私の、いま、感じている幸せは、幸せじゃないの?
普通じゃないから?

普通って、なに?



ココロが、ヒリヒリします。
みんな、みんな、いろんな事情を抱えて、悩んで、捨てて、拾って、それでも生きています。


どうでも、いいじゃん。



子どもがいるから、いないから、で仲良くしちゃいけない、仲良くしなきゃいけない、なんてことはないし、
親不孝だから、人でなし、なんてことはない、だいたい、親不孝も誰が決めるのか。


親の気持ちは親でないとわからない、なんて、迷信か神話じゃないの?

親になって、親の気持ちがわかるなんて、思い上がりだよ、と子どもを持って、私は思った。
それまで、親に甘えている証拠なんじゃないかな。



「立場の違い」がわかるだけ。



自分も、親を愛してる。
水より濃い血の分だけだけど。


たとえば、
「子どもがいないからわからない」というのは実は無責任だ。言う方も、言われる方も。
エクスキューズとしては、認めないこともないのだけど。


それは、立場の問題。

そうじゃなくて、
私は、あなたは、
という視点をたいせつにしたい。


子どもがいる私から見た、子どものいないあなたは、
とか、
親と不仲だった私から見た、やっぱり不仲のあなたは、
みたいなね。

(ちなみに私は、親と不仲とはいえ、絶縁ほどではなく、性格とか相性のレベルでしたので、後半はだいぶ普通にできるようになりました)


立場の違いを、お互い、嘆いたり、あげつらうのではなく、
私が言うと図々しくてちと横柄かもしれないけど、
「子どもいないんなら、ウチに遊びに来てかまってやってよ、喜ぶから」

往々にして、子どもから見たら、キレイな独身だったり、とても真似出来ないキャリアだったりするわけです、おかんと比べたら(笑)で、お土産とかも、いつもよりイイもん持ってきてくれるわけです。

子どもたちも、現金なもので、仲よくしてくれたひとは、たまに思い出して、また来ないかなー、だの、どうしてるの?だの聞いてきます(笑)
友だちも、あの子たち、大きくなったよね、どう?って、気にかけてくれます。

そのくらいからで、いいです。

お互い、気にかけていれば。

私の子どもには、
知らない人の老後を見るなんて思わないで欲しい。
私のともだちには、
よその子に老後の面倒見させるなんて思わないで欲しい。


なにしろ、
私は、生物学的には繁殖したかもしれないけれど、経済的には、回しはしたものの、生産していないのです。
彼女らの多くは、経済的には回し方も、生産量も、私など、彼女らの足もとに及ばないほどなのです。


私たち、内の者にしたら、外からやってくる、キラキラした人たちなのですよ。
たとえ、主婦だとしても、同じじゃないんだよなあ。


だからね、
専業主婦を家畜と揶揄した人もいた。
母親業を偉業と讃える人もいた。
おひとりさまを確立した人もいた。
全てを手に入れ、手放し、仏の道を選んだ人もいた。

いま、この状態を、
満足している人もいる。
不満に思う人もいる。
自分は満足しているのだから、人に言われたかない人もいる。
わからない人もいる。
満足だけど、これだけは遺恨だな、という人もいる。


ほんとうはね。

「子どもを持つことを選ばなかった」

なんて、言わせたくなかったな、と思います。

たまたまなんです。

私が子どもを産んだのだって。

たまたまです。
結果論です。

ここまで、色々なことが複雑に進化し、発展してしまった社会では、
原始な生活はできないのです。
文明的であろうとすればするほど、
野生なものを減らさねばならなくなるのです。

それは、ワガママかもしれない、
でも、ワガママとは言いきれない。

私だって言わなければならない。

たとえばですよ。このように。

「子ども持つことを選んできた。そうしないと、自分が満たされなかった。そうしてでも、自分の思うとおりにしたかった。母親から離れたかった。キャリアなどないただの女は、それまでの社会生活から離れて、専業主婦に甘んじていたかった。それしか思いつかなかった」

…ま、そのツケも、今、来ていることを付け加えておきます(笑)


だからねー、みんな、おんなじですって。

誰かを責めても、自分を責めても、自分は楽になれませんから。

ノイジーマジョリティに惑わされないでね。



あ、逆にね、愚痴としての発言なら、このテの話だってさらっと聞けますよん。おもしろいもんですねぇ。



うーん、まとまらなくて、申し訳ない、
このくらいで、どうだろか?
m(_ _)m






みんな、たいへん。
みんな、つらい。
あなたも、わたしも。
そして、
みんな、たのしい。
みんな、うつくしい。
あなたも、わたしも。







素敵な毎日を。

たくさんの、
愛をこめて。

おかん。