岡本ゼミの学び方=「学問」で遊ぶ

 入ゼミ希望のみなさん、こんにちは。岡本ゼミに興味をもっていただき、ありがとうございます。

担当者の岡本です。

 前回の記事では、Sport Policy for Japanに参加してゼミの3年生は「何を目指すのか」、また「具体的にどのように取り組むのか」について説明しました

ゼミ3年生の学び方1:Sport Policy for Japanで何を目指すか 

 

 今回も少し角度を変えて、ゼミでの学習の方法についてお話していきましょう。

 先日、今のゼミの3年生とゼミの新歓について考えている中で「学問でふざけ合うのって楽しいですね!」という言葉が飛び出しました。「意思決定論」の理論を新歓に応用できるのでは、といった軽い議論の中から出てきた発言なのですが、実はこのゼミの学び方の核心には「ふざけ合い・戯れ合い」「遊び」があるのではないかと担当者は日頃から考えているので、この記事では、卒論への取り組み方やSPJへの取り組み方と関連させて、「学ぶこと」と「遊ぶこと」について整理していきたいと思います。

 

SPJの取り組みの中で

オルタナティブ・スポーツについての

実験&アンケートを実践する3年生

 

 

教室で遊ぶ

 

 少し前の記事で、うちのゼミの卒論について紹介しました。

 →「2月4日に卒論発表会を開催しました」

 

 ここに掲載されている卒論のリストを読んだみなさんはどのようにお感じになられたでしょうか。

 「まじめにふざけている」感じがしませんかね?まじめにふざけることは、遊びの本質として重要であるようです。

 遊びの定義をプレイ論者であるホイジンガは以下のように述べています。

 

「遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのものの中にある。それは緊張と喜びの感情を伴い、またこれは『ありきたりの生活』とは、『別のもの』という意識に裏付けられている」(ホイジンガ『ホモ・ルーデスンス』より)

 

 この定義では、限られた時空間に生み出される「規則(秩序)」を、そこに参加する者が「自発的に」(自らすすんで主体的に)受け入れているところに「緊張と喜びの感情」(面白さ)が生み出されるということが強調されています。日常とは違ったプレイの規則(秩序)に夢中になる、全身全霊で没入する(拘束される)ことが遊びの面白さ(緊張の伴う喜び)のためには重要であるということですね。

 秩序に絶対的にしたがうという意味で「まじめ」であるが、非日常とは違った秩序にしたがった行為は(日常側から見て)「ふざけている」ように見える。うちのゼミの卒論では、アイドルやゲーム、観光、スポーツ、メディア、漫画、映画、ラップ、広告動画・・・など、一般的には学問の対象とはあまり考えにくいものについて、学問のルールに則って(主体的に拘束されて)「まじめ」に論じていますが、外側の者の視点に立てば「ふざけている」ように見えるかもしれません。が、本人たちは夢中になって「緊張の伴う喜び」を味わいながら必死に卒論を書き上げるのです。しかも、その大半が「実利」(生産性)に結びつかない結論を導く。非生産的であるが、その行為自体の中に喜びが見いだされる、という意味で、うちのゼミの卒論は「遊び」であるようにみえます。

 

 

遊びの結果、得られるもの

 

 そのような観点でゼミの学習を捉えるならば、SPJへの取り組みもまさに「学問のルールにしたがって、日常からみると『ふざけている』ようにみえる行為」=遊びなのかもしれません。

 「社会的課題をスポーツで解決する」ということについて半年もかけて一生懸命にみんなで考えるって、冷静に考えると「ふざけている」ようにみえませんか?外から見て「おかしな」ことに真剣に取り組むこと、それがSPJの核心にはあります。しかし、それが「学問のルール」に則ることを強制するが故に参加者にとっては、学問の基礎練習になるわけです。スポーツが、それに夢中になる者の基礎体力を向上させ、それぞれの種目に合致した神経系の発達を促すように、学問的な振る舞いや思考法をSPJへの没入は「結果として」もたらすのです。

 

 岡本ゼミでは、卒論のテーマについて「長時間考え抜きたい、自分にとって意味のある対象」を選ぶことを推奨しています。できるだけ、他者がとやかく言おうが、自分が惹かれ、知的探究に夢中になれるテーマを選ぶべし、ということが卒論に取り組もうとするゼミ生には課されます。なので、必然的にそれまで自分を夢中にさせてきた対象がテーマになることが多い。

 おそらく、それぞれのゼミ生にとって、大学生活の最後の1年間、自分の考えたい対象についての「問い」を抱えて生きるという経験は意義あるものとなるでしょう。しかし、それが社会的に何かを生み出すか、生産性に直接貢献する結論を導くか、というとそうでもない。実利や生産性を求められることから離れ、卒論に取り組むことに埋め込まれた「知的探究の面白さ」に夢中になることこそがここでは大切なのだと思います。それに夢中になることが、「結果として」、卒業後の生産性が求められる職場において、人とは違う視点で物事を考えられる、より大きな生産性に結びつくような能力を身に付けることに貢献するとゼミ担当者は考えております。

 

「学問でふざけ合う」、その先には・・・仕事でもプライベートでも知的探究が楽しめるような、そんな人生が開けるのではないか、と思うのです。

ゼミでの議論の風景。

大きな教室を自由に使って議論をしています。