岡本正、病上手の死下手、3部 秩父宮の療養生活を偲ぶ | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

思い出の医学記事

秩父宮の療養生活を偲ぶ

錚々たる保健同人社の編集陣

私が保健同人社と縁を結んだ後、再び長い療養生活を余儀なくされ、編集の現場に戻ったのは昭和二十七年も暮近くなってからであった。このことは前にも述べたが、折も折、明けて二十八年の一月四日、「療養の宮様」として、多くの結核療養者に慕われていた秩父宮た仁親王がとつぜん逝去されたのである。
その日の朝のラジオニュースでこのことを知った私は、すぐ大渡順二社長のところへ電話をした。大渡は「明日すぐ編集会議を開く。必ず出社するように」ときりかえすように指示をあたえてくれた。
一月五日は恒例の「御用始」の日である。朝の挨拶は「新年おめでとう」ではなく、秩父宮への哀悼の祈りであった。午後にはすぐ編集会議が開かれ、すでに印刷工場に渡してあった二月号の原稿の一部の組みをさしとめ、同号を「秩父宮の追悼特集号」とするこどが決定された。二月号の発行はこのため十日ほど遅刊になる。それはまさに非常の決断といってもよいことだった。
当時の保健同人社には鉾々たるメンパーがそろっていた。社創立以来、大渡の片腕となって社を育ててきた中村尭一郎、朝日新聞出身の松尾健一郎、中外商業(現東京新聞)出身の木谷芳雄、そして『保健同人』編集部には矢口茂雄編集長、当時すでに編集者生活二十年というベテラン記者、潟岡登などである。そのほかにも、すでに出版社を経営した経験をもつ上野豪彦、編集・営業の両面で活躍していた芦田等なども、編集会議ではつねに積極的な発言をしていた。
新人には私のほか、その前年入社したばかりの飯島耕一(東大出身、現在、詩人・明治大学教授)、海老原建彦(東大出身、現在、メヂカルフレンド社)、石尾茂(早稲田出身、現在、博報堂)がおり、『保健タイムス』には東大の森脇逸雄、上智大の谷又昭(二人とも現在、読売新聞)がアルバイトとは名前だけ、まるで正社員のように張り切って仕事をしていた。
そのときの会議の内容までは覚えていない。しかし、その年の二月号で、二十四頁を使って組まれた特集「秩父宮の療養生活を偲ぶ」の巻頭に書かれた「前言」をみれば、その結論ともいえる「特集の趣旨」がよくわかる。これはおそらく大渡が自分で書いたものだろう。すこし長くなるが、それをそのまま紹介しておこう。

長い闘病生活をおくられていた秩父宮に、わたくしたちは宮が「スポーツの宮」であるとか、「平民的な資質の宮」であられたとかいうことよりも、わたくしたちと同じに結核を病む「療友の宮」であるということで、特別の親しみを感じていました。その宮が――病気も次第に快方に向われているというように伝えられていたのに――遂にお亡くなりになりました。わたくしたちの近所にともっていた灯が一つかき消されたような感じがします。そして――わたくしたちょりも生活にも、医療にもめぐまれていたはずなのにどうしてお治りにはならなかったのだろうか――ご病気が、快方に向われていたと伝えられていたのは誤りだったろうか――そんな疑問にとらわれます。そこでわたくしたちはこの疑問にいくらかでも答を出したいと、この緊急特集を行うことにしました。一般のジャーナリズムが宮のご生活をスポーツその他ご趣味の面を通じて、お偲びしているのに対し、宮の十二年にわたる療養生活は何としても本誌が責任と良心をもってお伝えする義務があると思いました。ところでこの特集にあたっては、宮の療養生活に関係のあると思われる方面はほとんどあたって材料を集め記事をまとめたのですが、ご発病からご死去までのご療養経過についてはともかく、ご遺志によって解剖所見の内容は差控えてほしいとのお話でありました。これにより本社はその取材と誌上発表の双方について一線を劃し宮のご遺志を損じないよう厳に自粛いたしました。ともあれ、お亡くなりになられてのち、ご遺体を解剖させてまで結核を科学されようとした宮のご遺志をお偲びしながら、わたくしたちはわたくしたちの編集方針を通じて、その宮のご闘病経験をあくまでも正しく科学的に全国百五十万の療養者にお伝えしたいと念願しました。そのことによって療友諸氏にまた何かを与えるものがあれば、地下に眠られる宮もきっとご満足下さると思います。(原文のまま)

私のはじめての仕事

この特集の取材、執筆には、ほとんどの編集者がいろいろのかたちで参加した。大渡が直接その総指揮をとったのはいうまでもない。
結局、特集の誌面構成は、
一、御病歴(年譜風に)
二、主治医寺尾殿治氏をかこむ座談会
を中心に、
三、診療にあたった中村順一、遠藤繁清、折笠晴秀、児玉周一、坂口康蔵氏らの談話
四、結核についての各分野における専門医、岩崎竜郎、宮本忍、三木威勇治、大越正秋、北錬平、
各氏の解説
五、大渡順二の感想と世論の紹介
でまとめられている。
この企画には全編集陣が参加したといったが、その基礎的取材のために、足を使って走りまわったのは、やはり『保健同人』編集部に所属する飯島、海老原、それに私の三名であった。
三十年もたった遠い日の思い出は、いたずらに私自身の働きぶりを美化してしまっているのだろうか。あるいは、私自身の心の底に「自分自身の功名」を誇りたい気持があるのだろうか。私には、この取材に大きな手柄をあげたことばかりが思い出されるのである。
秩父宮の若き日の主治医が中村順一氏であることを知ったのは、私ではなかったかもしれないが、中村氏を訪問し、その談話をとったのは私であった。
中村順一氏は、明治四十四年東大卒、大正六年、陸軍幼年学校奉職中、ご入学された秩父宮の診療主任を拝命、ひきつづき昭和十八年まで二十六年間、侍医をつとめ、秩父宮の大正十四年五月、昭和十二年五月における二度のご渡欧にも随行している。軍医少将で陸軍を退役した中村氏は当時、岩波書店の嘱託医をしていた。外壁が蔦で一面におおわれた岩波書店の、いかにもこの書店らしい古びた畳敷きの医務室で、トツトツと往時を懐古されるのであった。
子どものころからの宮様に仕えたとあれば、もうその話にはなんの飾りもなく、いつかこの老軍医の瞼には涙が光っていた。
「私には所見のないと思われた当時のレントゲン写真ですが、もっとりっばな専門医がみていたら、変化があったのかもしれませんね」――それはほんとうにしみじみとした声であった。
しかし、私にとって聞きのがすことのできなかったのは、ご自身が侍医であったときの話より、当時の侍医団が内密にしておきたがった、秩父宮の発病後の経過についてだった。特ダネといってもいい話を、中村氏は淡々とした口調で私に語ってくれたのである。
その秘話を、出所を明らかにしないまま、当時の侍医団にぶつけ、秩父宮ご闘病の経過のなかのかくされた部分を明らかにした点はきわめて多い。

不十分だった腎臓摘出前の検査

秩父宮が腎臓結核になられたとき(昭和二十三年八月)、湯河原で開業していた泌尿器科の折笠晴秀氏が、遠藤、寺尾両侍医の推せんで、九月十一日、御殿場の秩父宮邸にあがり、膀洸鏡検査を行ない、同月十九日に、鈴木三郎、児玉俊夫両氏を助手に、右腎臓摘出の手術を行なっている。
これについて「秩父宮の御病歴」ではつぎのような記事になった。

九月十一日。インジゴカルミンの静脈注射による検査によれば、左腎臓はまったく正常であったが、右腎臓からはインジゴカルミンの排泄をぜんぜん見ず、右腎臓結核と診断された。それ以上の検査は病変に対する刺激を考慮して行なわなかったとのことである。化学療法も一応考慮されたが、摘出手術を行なうことに決定した。
九月十九日。摘出された右腎臓には二個の結核結節が認められた。しかしその後、反対側の左腎臓にも結核性の変化が認められ、尿中に結核菌を検出していた。

私は「反対側の左腎臓にも結核性の変化が認められたのに、なぜ右腎臓の摘出にふみきったのか」に大きな疑間をもった。そこで私は、関東逓信病院の大越正秋泌尿器科部長を訪ね、腎臓摘出前の検査について話をきいた。
大越氏は「そんな無茶な」といい、必要な検査について、くわしい話を聞かせてくれた。
私は、その予備知識をもって、折笠晴秀氏に会い、その疑点をただすことにした。そして、それについての批判は大越正秋氏の意見として紹介することを、大渡に申しでた。
大越正秋氏の「腎結核の手術と検査」はつぎのように述べている。

腎・膀洸結核の疑いのあるときは、私どもは次のような検査をします。まず、尿をくわしくしらべ結核菌を培養し、次に膀脱鏡検査をしてその粘膜に結核性の変化をさがし、かつインジゴカルミンを静脈内に注射し、それがどちら側の腎臓から何分で排泄されるかを勝洸鏡でのぞきながら検査します。この場合悪いほうの腎臓からはこの薬の排泄がおくれ、腎臓の病変がひどい場合はまったく排泄されません。それから、膀洸鏡でみながら、細い管を尿管を通して腎臓まで入れ、その管を通して出てくる尿を左右べつべつにくわしくしらべ、また結核菌の培養検査をします。それにひきつづき、その細い管から両方の腎臓に薬を入れてレントゲン写真をとり、腎臓の形の変化をしらべるのです(逆行性腎孟撮影法)。なお静脈内に薬を注射して、それが腎臓から排泄されるかどうか、またそのなかに溜った所をレントゲン写真をとってその形を検査する方法(静脈注射腎孟撮影法)も行ないます。
これらの検査をしますと、どちら側の腎臓がどのくらい悪いかということがわかりますから、そこで抗結核剤を用い、また手術して悪いほうを切り取るという段どりになるわけです。
こういう検査を十分しないで手術することはまちがって良いほうの腎臓をとる危険がありますし、また漠然と抗結核剤を用いますと、膀眺の結核だけは治って自覚症は消えますが、腎臓のほうは治らないで進むことがありますから危険です。
以上のいろいろの検査法は約二十年くらい前から発明され、行なわれていることでして、現在のちゃんと設備のととのった泌尿器科では、これらを十分行なってから手術しておりますので、まちがいということはまずありません。
なお、これらの検査法はほとんど苦痛はありませんし、腎結核を悪化させるようなことは絶対にありませんから、進んでこの検査をお受けになることが、結局ご本人のために大切なことなのです。

折笠氏とのインタビュー

折笠晴秀氏は遠藤繁清、児玉周一氏などと同じ、明治時代の東大医学部卒業。これらの老大家が遠藤氏を中心に秩父宮侍医団をつくっていた。昭和十九年一月に、中村氏にかわって秩父宮の侍医になった寺尾殿治氏(結核予防会健康相談所長)も、これらの老大家に多少の遠慮があったのではなかったか。これは私のひそかな憶測であった。
折笠氏が秩父宮の御葬儀の前夜である一月十一日、第一ホテルに宿泊するという話を聞いた。しかし、新橋の第一ホテルは駐留軍の専用になっていた。広い豪華なロビーには、アメリカ人の男女がゆったりと腰をおろしているだけだった。私はあわててホテル近くの喫茶店に入り、電話帳をくりひろげた。第一ホテルという名のホテルがもうひとつ、下谷の妻恋町にあることを発見、ただちにタクシーをつかまえてとんでいった。
それは小さなホテルであり、玄関からのぞいてみえるホールでは、朝鮮から帰ったばかりという感じの米兵と、日本の、それとはっきりわかる女性たちが、喧噪をきわめるジャズにあわせて踊っていた。無駄足に終わったことは、いうまでもあるまい。
私が折笠氏をつかまえたのは、葬儀が終わったあと、東京駅から東海道線に乗りこんだ車内であった。私は横浜までの切符を買い、ひそかにそのあとをつけ、何気ない顔で折笠氏夫妻の席の前にすわりこんだ。
にわか仕込みの知識とはいえ、折笠氏が私のような質問をジャーナリストから受けたのは、これがはじめてではなかったろうか。折笠氏ははじめ私の質問を黙殺しつづけた。私は「お答えいただけなれば、私は湯河原まで、あるいはご自宅までもお供します」といって、折笠氏の前にすわりつづけた。折笠氏はついに、私のつきつけた事実を認めた。
御病歴に「それ以上の検査は病変に対する刺激を考慮して行なわなかった」とある、たった二行の文章は、この取材によって得たものなのである。

副睾丸も摘出していた

秩父宮が亡くなられたわずか二十日前に、その副睾丸を摘出していたということも、『保健同人』だけが報道した事実だった。正確な「御病歴」を記録するためには、それは欠かすことのできないことだった。
侍医団は、この事実の報道にすこしもふれようとはしなかった。ご逝去の日に遠藤繁清氏が発表したのは、
「かねて左側コレステリン性肋膜炎、心のう炎があらせられましたところ昨年十二月中旬から肝炎を発せられて、食欲不振、心臓衰弱に陥らせられ、あらゆるお手当を差上げましたが、ついに一月四日午前四時三十分薨去されました」
という簡単なものだけだった。
つまり左側水胸(コレステリン性肋膜炎と公表されたが、わかりやすくいえば慢性湿性肋膜炎のこと)によって、肋膜が肥厚し、その圧迫によって,結核性心嚢周囲炎の症状があり、心臓衰弱になっていたところ、昭和二十三年以来、臓器の結核、肝臓炎などの併発によって、長期にわたる食欲不振があり、全身的な栄養失調ともいえる機能低下をおこし、二十七年暮のカゼいらい、急速に衰弱が加わり、不幸な転帰をとられた、ということである。
この特集号が出てから、各新聞や週刊誌はその内容を高く評価してくれた。
ただ、私がもっとも尊敬する結核医であり、私自身五年近くも入院していた結核予防会保生園の園長である柴田正名先生に「良い記事でしたが、副睾丸をとったことまで書く必要はなかったんじゃないかね。これも世代のちがいかなあ」といわれたときは、その事実をつきとめたのが、ほかならぬ私自身だっただけに、心のなかでシュンとするものがあったことを、今でもはっきり覚えている。

秩父宮の遺体解剖

秩父宮がご自身の遺志として、そのご遺体を解剖されたというニュースは、一月八日、朝日新聞の特ダネとして報道された。
私はその新聞をみた直後に、遠藤繁清氏のお宅を訪ねた。遠藤氏は歯医者に行っているという。私はそのまま近くの歯医者まで足を運び、すでに治療用の椅子に腰かけている和服姿の遠藤氏に、遠慮のない質問をぶつけた。遠藤氏はいう。
「私も知らなかったのですよ。朝日の人は会いにきても、その話にはぜんぜんふれないんだ。どこから、あんな談話がでたのかね」。
私は、遠藤氏が歯の治療を終わって自宅に戻り、服装をととのえて、迎えの自動車に乗るまで、そのあとをついて歩いた。「私も途中まで乗せてください」とまで頼んだ。しかし、それには、さすがに温厚な遠藤氏も、きびしい顔で私をとがめた。私は引きさがらずを得なかった。
『保健同人』二月号の特集では、「特集の趣旨」でことわったように、解剖所見にはいっさいふれず、大渡もその感想「療養の宮さまのこと」で、つぎのように書いている。

ご遺言によって、ご遺体を解剖させられたことは素晴しい決断だったと思って畏敬申上げる。この解剖が菊のカーテンの中に迷惑を及ぼすのをさけられたのだろう。解剖の事実を秘せられたのには、きっとそのお心遣いがあったのだろうと思う。だがこの解剖のお話が満天下に報道されてみると、宮様の人気は倍ましに上ったのを感じる。死後解剖ということは、常人だってなかなか決断つかないのが例である。宮様と妃殿下の決断はほんとに素晴しかった。宮様乃至菊のカーテンの尊厳を傷つけるどころか、科学的ご理解のほどが知れて、みんなの畏敬はさらに増したのが事実である。お互いにめいめいが死んだら死体はぜひ解剖してもらうのがいい。私自身も死んだら隈部先生に(もし私の方が早かったら)解剖していただく約束をしている。その話をすると、早く私の中味をのぞいてみたいという先生たちがいる。私は内臓をみんな予防会の結核研究所に残す心算である。
故人の意志はあくまで尊重するのが礼儀である。だから解剖内容を公表しないのは一応ごもっともである。だが、多くの人々が殿下のスポーツその他のご趣味のエピソードで追憶にふけっているときに、一方では日本中の百何十万人の結核患者は「日本一の模範的療養者であった宮様、しかも日本一の模範的な治療をうけたと思われる宮様が、なぜ亡くなられたのだろうか?」と解けぬ疑間に包まれている。そしてめいめいの療養態度に自信を失っている。宮様が、ご自身の意志とは別に、国民から「療養の宮様」として親しまれてきただけに、宮様のご死去は全療養者の共同の事件なのである。だから、この不安をのぞくために、妃殿下がもう一つの勇断を決意してくださるように、そう思って、私はあの解剖の記事をみるなり投書原稿を書いて、朝日新聞の投書欄「声」の担当者まで使いにもたせた。日本中の療養者の気持を代表するとともに、みんなの気持をその方向に導きたいと思った。あるいは妃殿下のお気持を損じているかも知れない。しかし私は面を冒して申上げたいと思った。
しかし、これにはこんな裏の話がある。それから十年もたってから、大渡は、「義宮の御妃」が朝日新聞の特ダネとして報道され、週刊文春が、この特ダネについての報道合戦を特集したとき、つぎのような打明け話をしているのである。

――東京新聞の津田社会部長が特ダネを二つに分類して、全然他社の知らない特ダネと、いつになったら書くか、その段階を競う特ダネの二種類があるといって、こんどの義宮妃問題は後者に属する云々と語っていた。なるほどと思った。そして、その前者に属する特ダネとして、往年秩父宮が亡くなったとき、遺志によって宮様の遺体解剖が行われた――あの記事は前者に属するすばらしい特ダネだと語ったのを読んだ。これも、なるほどと思う話だが、私には特別の感懐がある。それは、その特ダネは往時の「朝日」のお手柄であったが、その提供者は私だからである。なるほど、あの特ダネは他社の人たちに、そんなに深いショックを与えていたのかと、今さらながらに教えられて、私はまるで、自分が「朝日」の紙上で特ダネを書いたかのような、往年の特ダネ意識になって、特別の感懐を催したのである。これは私に対する徳義から「朝日」は黙っているけれど、私自身がおしゃべりするのならかまうまい。私も、あれは素晴らしい特ダネだったと思っている。
昭和二十八年一月四日、秩父宮が、長い結核療養のかいもなく亡くなられた。私は療養雑誌『保健同人』の主宰者として、療養の宮としての秩父宮に他人以上の親しみを感じていた。御殿場の宮邸にいって座談会をお願いしたこともある。翌五日の夕方、私たちがその一室を間借りしている結核予防会の役員秘書室で、結核界の大元老である岡治道さんが、その一番弟子である隈部英雄さんを急いで捜していられる電話を聞いた。岡さん、何を急いでいるんだろうなと思ったが、その時は気にもとめなかった。
六日、納棺の日に、私はある人から、秩父宮の遺体解剖の話を聞いた。秩父宮の亡くなられたあと、枕の下から、「遺体解剖してはしい」旨の遺書が出てきた。皇族の身で、結核の手術をするのさえ、おそれおおいといってさえぎられた故殿下であった。生活保護階級でさえもが、結核の外科手術をどんどん受けていい成績をあげていた当時に、故殿下は自分の対症療法的な治療に対してきっと無念だったにちがいない。この遺書は、これを科学の下に照射しようとする痛ましい抗議だったにちがいない――私はそう受けとった。だが、話はあまりにもショッキングだった。関係者は絶対秘密にしているという。しかし、私は、ある一人の親友と相談した結果、こういう話こそ絶対に公にしなければならないと思った。それが故殿下の本当の遺志だと思った。
私はその夕方、自分の昂奮を抑えながら朝日新聞の進藤次郎君(そのとき社会部長だったか、局次長だったか)を訪ね、朝日のうらの喫茶店でこれを耳打ちした。私の不満は、それが翌七日朝の朝日紙面を飾らず、一日おいた八日朝刊で報道されたことだった(七面トップでデカデカと出た)。だが、あとでよく考えてみると、朝日は私の話を補足して確かめたあと、ネタの出所をぼかすため、あくる日一日かかって関係者たちを全部訪問したらしい。掲載された談話では全部の人たちが、同じようにニベもなく否定していた。これで関係者に一人の犠牲者も出なかった。私はさすが朝日新聞の深慮かなと思い知って嬉しかった。
(中略)
岡さんが捜していた隈部さんに連絡がついて、あの五日の夜、真夜中に宮家の座敷を解剖室にあて、隈部さんの執刀で極秘裡に解剖が行われた。なるほど、そのために岡さんが隈部さんを捜したんだなと、私はあとで気がついた。主治医はじめ関係者は、寒い冬の夜を徹して、息を殺して、この緊張した場面に立ちあった。そして夜がしらじらとあけるころ、お互いにこの秘密を胸に奥深く畳みこんで黙々と宮邸を辞した。これがこのままなら、宮様の遺体解剖は、永久に秘密に葬られていたはずであった。私が進藤君にタネを提供したのは、秩父宮の抗議を秘密に葬ろうとすることに対する抗議だった。公憤だった。
私はそもそもだれから話を聞いたのか。それだけは、さすがにまだ言うまい。ただ話の糸口にだした岡さん、隈部さんでないことははっきりしておく。そうでなければ、この話の導入部にだって引用できるものではない。

私たちが夢中で取材にとびまわっているとき、大渡はこれだけの特ダネをつかんでいたのである。そして、朝日の記事についての情報提供者が自分であることを、この記事が書かれるまで、私はもちろん、すべての社員に話しもしなかった。

天皇家の健康管理

秩父宮の取材にあたったとき、私たちは驚くべき話をたくさん聞いた。
中村順一氏は、二十数年間侍医として奉仕中、いちども注射をしたことがなかったという。昭和十二年、英国皇帝ジョージ六世の戴冠式に列席されたあと、流感から肺炎になられたときも、当時すでに市場に出はじめていたスルファミン剤を、それが使用経験の少ないものであるという理由だけで、随員の反対にあい、買って手もとに置いたまま、ついに使わずにしまったそうだ。
「玉体に針をさす」など、もってのほかであり、尊い方にはいっさいの冒険は許されなかったのである。
寺尾殿治氏は昭和九年から、すでに結核の気胸療法を実施し、それは当時「寺尾式気胸」と呼ばれ、肺結核の治療法として多くの成果をあげていたのである。その寺尾氏が秩父宮の侍医になったのは昭和十九年の一月二日。「なぜ、気胸療法をされなかったのか」という疑間がでるのは当然のことであった。これについて寺尾氏は、
「その問題を一つ、解決しておきたい。高貴な方なるが故に気胸できなかったというのはね、それは私のいい過ぎかも知れないんですよ。というよりは、その時分の侍医の気持を現わしている。私としてはやりたい。しかし、遠藤先生なんかそういうことを考えておらなかったかも知れない」と答えている。
宮様なるが故に、最善の治療を受けることもできず、腎摘出、肋軟骨切除、副睾丸摘出という、三度にわたる手術さえ、御殿場の別邸に臨時に設けられた、設備もじゅうぶんではない手術室で行なわれたのである。
『保健同人』の寺尾氏をかこむ座談会では、つぎのような話がかわされている。

本社 早く立派な病院に入院されるということは、できなかったもんですかね。
寺尾 できないことはなかったかもしれないけれども、あの頃は戦争中で……。だいたい宮様の入院をお引受けしましょうというようなところはどこにもないでしょう。はたがうるさくてね。なにしろ神様でしょう。また、宮様の入られるような療養所はどこにもありはしませんもの……。
本社 しかし今度は……病院に入りたいとおっしゃったんでしょう。
寺尾 病状でハッキリわからない点もあったので、遠藤先生を中心に協議したんですよ。宮様をひとつ徹底的に拝診して貫いたいという希望があって、ここでいくらいっていても仕方がないし、国立東京第一病院のほうがよくはないだろうかという話になった。それで坂口先生(坂口康蔵国立東京第一病院長)に診てもらったら、もうどうにもならんことになっておったんです。

これらの話は戦前、あるいは終戦直後の混乱期だけにみられたことではない。
昭和三十八年九月号の『保健同人』で、私たちは、『週刊女性』の徳大寺公英編集長、朝日新聞の宮内庁詰の安達啓三記者の二人を招いて、「天皇家の健康管理」という座談会を開き、その辺のことを聞いてみた。
一、皇族を含めて天皇一家では、宮内庁病院以外に入院する病院はない。このごろになって、ようやく宮内庁病院を新築する話がでていたが、当時の宮内庁病院は戦争中の海軍の倉庫で、北側の一部が物置になっているという、木造のお粗末きわまりないものであった。美智子妃殿下が胞状奇胎という重病になったときも、執刀こそ東大の小林隆教授(産婦人科)が担当したが、手術はこの粗末な病院で行なわれた。だからこそ、手術後そうそうに、葉山にひきあげられたのだ。
二、新築された宮内庁病院についても、『保健ジャーナル』という新聞は、つぎのように報じている。
「宮内庁病院といえば、美智子妃が浩宮さまを出産した病院だ。テレビでその汚れた木造病棟をみて驚いたものだが、最近新築病舎ができてきれいになった。ところが、その場所が皇居の厩舎から二百メートルの至近距離で、これは当然ハエの行動半径内である。このため、宮内庁は厩舎のハエ駆除にのり出した。その戦果があがって、ハエは以前の三分の一に減ったので、馬丁たちは大喜び。宮内庁はこれに気をよくして、これから年三回はハエの駆除をやりたいという」
三、宮中には、衛生管理の担当者がいない。ウソのようだが、侍医はいても、衛生管理者はいない。もちろん保健所がその管理状態を監督するはずもない。だから、ネズミやゴキブリ、ハエやカがどのくらいいるかも見当がつかない。
四、定期的な健康診断は行なわれているが、予防接種などがきちんと行なわれているかどうかはわからない。天皇が壮年になられてからハシカになられたのも、結局、戦後の度重なる行幸で感染されたものだが、それがたいへん重症だったことは、予防接種など受けていなかったという証拠になるだろう。
五、天皇はひじょうに度の強い眼鏡をかけている。これも、歴代の天皇で眼鏡をかけた方がいないからというので、長いあいだ眼鏡をかけさせなかったためである。
六、定期的な健康診断は受けているが、胃のレントゲン検査のようなものは、昭和三十年当時では「おそらくやってないと思う」と安達記者はいう。

このほか、この座談会で出た話ではないが、大渡は「行幸啓防疫実施要領」という随想のなかで、つぎのようにいっている。
いつだったか、私は、皇居内の牛乳しばりが非衛生きわまる状態にあることを書いた。天皇は、庶民ののむ牛乳とは別に、皇居内で牛乳をこしてのんでいられる話、その牛乳こしの布が茶色に染まっている話などを書いた。今でもそうなのかどうか、たしかめてもいないが、そのとき、天皇が森永や明治の大メーカーの牛乳をのめないで、手しばりの牛乳を差上げていることを書いたことを覚えている。こんども、「行幸啓防疫実施要領」として新聞に伝えているのを読むと、「さし上げる牛乳は、消毒ずみの白衣、マスクなどつけてしばること」という文字がみえる。森永、明治などの低温殺菌の牛乳は差上げられないのだろうか。こっけいな話である。森永や明治の牛乳処理をみると、こんなにまでしないでもいいのにと思うほど厳重な滅菌をしている。その牛乳がのめないで、役人のだれかが、「白衣とマスク」をかけてしばれば、そのほうが衛生的と思っているらしい。新聞はアイロンで消毒する? 私はふき出したくなった。飯沢匡氏は、それならば、放射能によごされた空気はどうするかといっていた。ほんとだ。東京都のバイ煙によごされた空気はどうするつもりだろう。