岡本正、病上手の死下手、3部 『保健同人』とともに歩んで | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

思い出の医学記事
――『保健同人』とともに歩んで――

保健同人社の歩みと私

「結核療養誌」から「家庭の健康誌」へ

私が保健同人社に学生アルバイトとして、強引に採用してもらったのは、さきに述べたように保健同人社創立直後の昭和二十一年の一月のことである。
しかし、その創刊号が六月に発行されたころには、治っているとばかり思っていた結核が治っていず、再び長い療養生活に入ることになった。社に復帰し仕事らしい仕事ができるようになったのは、昭和二十七年も暮近くなってからだった。
その後、昭和三十年に入って、壮年期から向老期にかけての読者を対象にした、おとなのための健康雑誌『これから』(二十八年十月創刊)の編集部に移り、さらに、社の事情で三十一年十月、畑ちがいの業務部の責任者になり、三十四年十月、新設された企画部を担当、三十五年十二月には財団法人保健同人事業団が設立され、私はそこの事務局長に就任した。しかし、その間も、私の心の中心にあり、私がその人生をかけていたのは、結核療養雑誌『保健同人』の編集であった。
岡治道、隈部英雄両先生を中心にすでに確立していた、結核の予防と治療の原理を、広く国民大衆に知らせようと決意していた大渡順二は、『保健同人』の編集、普及が軌道にのるとみるや、長いジャーナリストとしての経験と、つねに五年先、十年先を見通す先見の明によって、つぎつぎと新しい企画を心のなかに育てていた。
昭和二十三年三月には、一般公衆衛生新聞『保健タイムス』を創刊、戦後の厚生行政や保健問題に大きな指標を打ちたてた。
昭和二十八年十月には雑誌『これから』を創刊、成人病についての対策を積極的にとりあげるとともに、向老期以後の人生を実り豊かにするための、わが国はじめてといっていい「おとなのための雑誌」を創刊した。
そして、いまでは全国に普及し、医療の世界にすっかり定着してしまった「人間ドック」をはじめて提唱し、それを実現させたのも、大渡順二だった。昭和二十九年四月のことである。
職域の健康管理の重要性を認識し、そのための出版活動に手をつけたのは、昭和三十二年に入ってまもなくのことだったろうか。そして、こうした出版活動のなかで、昭和三十三年五月、『症状からみた家庭の医学』が発行された。「青木」の名で親しまれた、これもわが国ではじめてといっていい、「患者の立場にたって編集された」家庭医書であった。
大渡の意欲は、出版活動だけにとどまらなかった。出版活動と併行して、それまでまったく医師の手に委ねられていた診療の世界に、はじめて「患者の立場にたった、患者のための診療所」を設立しようと考えた。それが財団法人保健同人事業団の設立であり、三十六年の四月には付属の診療所を発足させていた。そして、ジャーナリズムが「医者の名店街」と呼んだ「特別相談」の制度をもうけ、象矛の塔にこもりがちの各科の専門医に、特診のための紹介の労をとるため、百名をこす専門医を顧間に迎えた。職域の健康管理をおざなりのものにしないため、各職域の実情に応じた集団検診のプログラムを作成するための協力にもあたった。それまで一週間の入院を必要とした「人間ドック」を、多忙な人のために、一日だけですべての検査が終わる「一日特急ドック」も開設した。

結核治療法の変遷

『保健同人』が発行された当時、医療を必要とする結核患者は三百万人をこえ、医師の療養指導を受けなければならない人は六百万人をこえていたと思う。結核による死亡者だけで年間十五万に近かった。
『保健同人』の創刊は、全国の結核療養者に大きな衝撃をあたえ、それこそ熱狂的といっていい多くのファンに迎えられた。
しかし極度に不足していた用紙が、『保健同人』の発行部数を著しく制限した。因みに創刊号は本文四八頁、発行部数は一万部を超えていないはずである。全国の療養所で一冊の『保健同人』が数十人によって回覧され、市町村や保健所の保健婦さんたちは、在宅療養者の枕頭に『保健同人』をとどけてまわった。
戦前から、数少ない専門医の手によって実施されていた人工気胸や、胸郭成形術などの外科療法が全国に普及しはじめたころ、アメリカで発見されたストレプトマイシンについての情報が日本にも伝えられてきた。ストレプトマイシンは、昭和十九年ころからアメリカで臨床実験がはじめられていたが、それが日本に伝えられたのは昭和二十三年、日本に輸入され、全国の主な療養所、病院、研究所で研究的に使用されたのが昭和二十四年五月である。それははじめて結核に有効であることが証明された最初の薬であった。
つづいて、ヒドラジド、パスなどの結核新薬がつぎつぎと発見され、結核は外科療法と化学療法の普及によって、「不治の病気」から「早期発見・早期治療によって治る病気」へと変貌していった。
結核療養雑誌『保健同人』の編集内容もすこしずつ変わっていった。
昭和二十七年には特集座談会「結核の治療法は変わったか」が、九月号から四回にわたって連載され、二十八年に入ると「これで結核は治るか――近頃の療養態度を俎上にのせる」といった座談会で「結核を治る病気と楽観し、療養生活をおろそかにする療友たち」への警告が大きくとりあげられたりした。

結核死亡の激減

結核治療法のこのような変遷のなかで、『保健同人』はつねに「結核療養の三原則」ともいうべき「大気・安静・栄養」の重要性を説き、ツベルクリン反応とBCG接種を中心とする「結核予防の重要性」を警告しつづけてきた。
しかし、こういった結核予防体系の確立と抗結核薬の発見、普及が結核による死亡者を急速に減らしていったこともまちがいのない事実であった。
昭和十八年には一七万一四七四名あった結核死亡が、昭和二十六年には九万三三〇七名、二十七年には七万五五八名と完全に半減したのである。(因みに最近では年間九〇〇〇人を割っている)。
そして、昭和二十七年五月二十五日からはじまった結核予防週間中の五月二十八日、厚生省は「結核死亡半減記念式典」を日比谷公会堂で挙行したのである。
それは日本における結核との闘いにおいて、もっとも画期的な行事だったといっていいだろう。皇后陛下と結核予防会総裁である秩父宮妃殿下の御臨席をあおぎ、約三千名の結核関係者が全国から参集した。その式典において、岡治道、熊谷岱蔵、今村荒男などの結核医学の大御所から、国立中野療所の喜多ふみ子さんまでを含む個人二十七名と、結核予防会などの十四団体が、結核予防事業の功労者、功労団体として表彰された。
うれしいことに、功労団体のなかに、保健同人社が含まれていたのである。表彰された団体のなかで報道出版関係は本社以外には、日本放送協会、自然療養社だけだった。表彰理由は、
――雑誌『保健同人』を発行し、患者及び患者家族を中心に、結核の正しい知識を普及――であった。
大渡順二社長はもちろんだったと思うが、『保健同人』の編集に生涯をかけようとしていた私にとっても、それは涙がこばれるような感激であった。政府の表彰を受けたというより、私たちの仕事がともかく「結核との闘い」に大きな役割を果たしたという事実が、広く社会的に認められたのである。いまでも私は、この表彰の楯をみるたびに、当時のあの感激を思い出す。それは現在の若い同僚諸君には考え及ぶこともできない「歴史の重み」といってもいいのではないだろうか。

結核療養専門誌の葬送

しかし、このころから、大渡順二の胸中には、『保健同人』を結核だけでなく、成人病や母子衛生、家庭や職域を含む、幅広い「家庭向け健康雑誌」に転換させる構想が生まれていたと思う。
それは、結核が死なない病気になったのが原因というわけではない。結核患者の数は当時もまだ多かったのだ。しかし、結核を治すものが患者自身の自覚と節制、回復へのあくなき意欲であった時代が終わり、結核が、普及した集団検診で比較的早期に発見され、発見された結核は医学の力によって治してもらえるようになっていたからだった。くりかえしていえば、それまで、結核を治すためには患者自身が結核についての正しい知識を身につけている必要があったし、そのためには『保健同人』を熟読することが、なによりも重要だったのだ。しかし、このころの結核療養者たちにとって『保健同人』は、絶対に必要なものではなくなっていたのだ。
私もそれは承知していた。
あれはいつのことだったろうか。私にとってはまったく畑ちがいといっていい業務にまわされたときだったろうか。私は何気ない顔でいったことがある。
「『保健同人』もいずれ廃刊になるか、一般的な健康雑誌に転換するときがきますね。しかし、それは私たちの敗北ではなく、私たちの勝利なんですね。それでお願いがあるんですが、『保健同人』の葬式だけはぼくにやらせてください。『保健同人』は社長にとってだけでなく、ぼく自身にとっても生命そのものなんですから……」
大渡順三社長が私のこの言葉を覚えていてくれたのかどうかはわからない。
昭和三十七年の秋が深くなったころ、保健同人編集部は、神田三崎町の結核予防会ビルにある本社から、保健同人事業団の診療所や事務局のある銀座の奥野ビルに移り、奥付にも三十八年二月号からは「共同編集。保健同人社・保健同人事業団」と明記されるようになった。そして、当時『保健同人』の編集を担当していた西来武治君(現『ホームドクター』編集長)が、財団法人保健同人事業団事務局次長としてやってきた。
こうして私は、保健同人事業団事務局長の肩書のまま、『保健同人』の編集に約七年ぶりに参加することができたのである。
私はもともとが雑誌の編集者である。財団の仕事はほとんど西来君にまかせ、『保健同人』の編集に夢中になった。

患者の立場でつくる雑誌

『保健同人』の創刊の精神は「結核を科学する」ということであった。創刊号からしばらくの間、ひきつづいて巻頭の目次の頁に掲載された「願ひ」と題する、大渡順二の巻頭言をここに引用させてもらおう。それは大渡の言葉であると同時に、保健同人すべての人にとっての「願ひ」だったからである。
雑誌の誌名を『保健同人』と名づけた理由について、大渡は、私たちにつぎのように説いていた。
「同人というのは、本誌に執筆する諸先生だけでなく、読者も、そしてこの両者の仲立ちをつとめる保健同人社の全社員をも含めて『同人』になろうということだよ」(仮名づかいは当時の原文のまま)。

 願ひ           大渡順二
 健かなるも驕らず、病めるも屈せず
 あかるく、逞しく、力をあはせ
 お互の手で、お互のために、たすけあひませう。
 六尺の床も、わたくしたちの天与の道場。
 ここにあたらしい生活の出発のあることを感謝しませう。
 病に親しむとともに
 病を生活しませう――それは飽くまでも厳しく科学的に。
 いままでの迷ひを反省し
 懐疑をはらひ、臆説をただして
 新しい科学の大道に予防と療養の生活を再建しませう。
 道はただひとつ
 ――結核を科学しませう。

『保健同人』の編集方針の第二は、あくまでも患者の立場に立つということであつた。
はじめのうちこそ、大渡の随想「思ふこと」を除けば、記事のほとんどは、当時の結核医学の第一線にあって、結核の予防と治療、患者の療養指導などに、先駆的役割を果たしていた医師の原稿が多かったが、その当時でも「質疑応答」欄を充実させていたし、翌二十二年の一月号からは、これを巻頭におくという、従来の雑誌では考えられないことをあえて行なっていた。
この「質疑応答」はその後「医療相談」、「読者相談室」、「健康相談室」などと名前を変えながら、雑誌が増頁されるごとに、多くの頁数をとるようになり、この十年以上は、つねに十六頁をとることが、ほぼ義務づけられている。
それだけ読者からの相談が多いわけで、度かさなる読者アンケートでも、「あなたがもっともよく読む記事」において、つねに一位を保っている。これは他の健康雑誌にはみられない現象といっていいだろう。
「療養体験記」を掲載しはじめたのは二十四年一月号から。執筆者は石田波郷、竹内てるよ、杉浦伊作、清水宗兵衛、渡辺誠毅といった、鐸々たる顔ぶれだった。
なかでも特筆大書しなければならないのは、昭和二十五年十一月号からはじまった「実地指導」であろう。これは応募した読者が専門医と直接話しあって、その療養指導を受けるもので、なかには、一流の名医が読者の自宅までわざわざ訪ね、患者だけでなくその家族まで合め、実際に診察し、その指導の実際を記録したものまである。

取材することの楽しさ
――『暮しと健康』誕生前後――

昭和三十七年の秋、私は『保健同人』編集部に復帰すると、その最初の号で、「古今亭志ん生の養生始末記」をとりあげた。一年前に脳卒中で倒れた志ん生が、新宿末広亭の高座に、再起後の元気な姿をみせたのは、この年の十一月のことであった。
それまでにも、多くの著名人に、その療養体験記を執筆してもらったり、元気になった姿をグラビアで紹介させてもらったことはあった。しかし、一般の週刊誌がとりあつかうような形式で、芸能人の私生活をルポしたのは、この記事が最初ではなかったかと思う。
だれが「いけない」といったわけでもないのに、『保健同人』は、それが患者の立場にたって編集された雑誌であるのに、なぜか、こういったヤワラカイ記事をさけるような体質をもっていた。
私は結核療養雑誌『保健同人』が近い将来、いずれにしろ発展的に解消し、「大衆向け健康雑誌」に変貌することを頭のすみに入れながら、こういった企画を編集会議に提出し、その承認を得た。そして私は、その最初の記事を、自分の手でまとめてみようと考えていたのである。取材中に、志ん生の高座復帰への強い意欲に感じ入ったことともあわせ、私にとって記念すべき、雑誌編集部復帰後初のルポであった。
私は翌月号でも、同じ方針で、「片肺なくても丈夫で長持ちする男・渥美清」をとりあげた。そのほか、いわゆる芸能人を対象として書きあげた記事では、エノケン・榎本健一さんの脱疸などが忘れられない。
こういった著名人の闘病生活については、その後もくりかえしとりあげられた。しかし、こうした記事のすべてが、けっして通俗に堕することなく、あくまで「患者の立場にたって、正しい医学常識を大衆に理解してもらう」ための手段としてとりあげられていることを、私たちは自信をもって誇りたいと思う。
私が雑誌の編集部に復帰して約一年半後、『保健同人』は、昭和三十九年六月号から、その頭に小さな文字で「保健同人」とつけながら『暮しと健康』と改題された。
その時期がなぜ三十九年六月号であったのかは、もちろん大渡順三社長の決断によるもので、私たちもその相談を受けなかったはずはないのだが、ふしぎにその前後の記憶は鮮明でない。
古い手帳を調べてみると、その年の二月二十四日(月曜) の会議では、すでに「六月号の表紙は五月号と同時に企画を進行させ、至急、試作品をつくること」という指示が出ているし、三月九日には、幹部社員全員による拡大編集会議が開かれている。
また三月十六日には「編集費の予算を一五パーセント増加する」ことが認められ、「表紙作成を四月二十五日までに完成する」ことが決定している。その当時の手帳は、こまかい文字で隅から隅まで、いろいろのことがぎっしり書きこまれ、そのひとつひとつがまるで符牒のような簡単な言葉でつづられているので、いま読みかえしてみても、その意味がはっきりわからないほどだ。
ただ、いまでもはっきり覚えているのは、新しい誌名を全社員から募集したことだ。わずか四十人ほどの社員から応募された案は、なんと三五五案の多数におよび、最後は「暮しと健康」と「暮しの健康」の二案にしばられた。前者を提案した者は三名、後者を考えたものは四名あったが、この二案のどちらにするかは、提案者そっちのけで、幹部社員が二派にわかれ、激論をたたかわした。
「と」にするか「の」にするかは、たいしたちがいがないようでいて、その平明さ、意味する内容の深さなどで微妙なちがいがあり、両派はそれぞれ執ように自説にこだわり、結論が出るまでに数回の会議を重ねたことを覚えている。
ともあれ、私は、改題された『保健同人・暮しと健康』の編集責任を、昭和四十年秋まで務め、小山寿君に交替した。
もちろん、そのずっと前に、保健同人事業団事務局長も西来武治君に交替していた。
そして私は、一年以上の日時をかけて企画を検討していた、久しぶりの本格的な出版といっていい『家庭の医学百科シリーズ』全十八巻にとりくむことになる。相棒は有吉堅二君。この企画のために新しく男性二名、女性一名の編集者を採用し、四十三年七月に全十八巻が完結するまで、毎日のように残業し、ときにはそれが深夜におよび、近くの旅館に泊りこみさえした。
それからの十年、私は主として図書出版を受持ち、雑誌編集を担当したのは、若い編集長が急に退社したあとの一年余(昭和四十六年四月~四十七年十月)と、当時の編集長の病気欠勤による編集長代行五か月(昭和四十九年九月~五十年一月)だけであった。それにその当時は、若い編集者がすでにじゅうぶん成長していたし、私自身も自分で直接取材し、執筆する年齢でもなかったので、特集記事を企画し、取材担当者に指示をあたえ、あがった原稿に筆を入れることはあっても、自分で直接、取材にかけまわることはほとんどなかった。
それだけに、昭和三十七年末から昭和四十年秋までの三年間は、私にとっていちばん思い出深い日時であり、医学記者らしい、充実した年月であった。
くりかえすようだが、私は自分で取材し、自分で原稿をまとめることが好きだったし、それを自分自身の天職とさえ考えていたから、雑誌編集から出版担当に移ってからも、自分でとりくみたいテーマさえあれば、すすんで編集会議にその案を提出し、本来の担当の仕事のあいまを盗んで、原稿を書き、雑誌『暮しと健康』に掲載してもらった。
そんな私の取材執筆記事をいま読みかえしてみると、その内容がどんなにお粗末なものであっても、そのときの思い出があざやかによみがえり、懐かしさがこみあげてくる。

「医学記者」という肩書

医療よろず相談所

いまでこそ新聞社はもちろん、週刊誌を発行する雑誌社にも、医療問題を専門にする記者がたくさんいるが、昭和四十年ごろまで、とくに雑誌社から週刊誌が出はじめたころは、医療問題をとりあげるとき、大渡のところへ談話をとりにくる記者が多かった。それには談話だけでなく、企画の内容や執筆者の選びかたについてオリエンテーションを教えてもらいにくるものも含まれていた。
大渡は、医療問題について患者の立場から発言する、たった一人の専門家として、そのころ、おしもおされもせぬ第一人者になっていたのである。企画の方向づけ、筆者の選定などの場合、大渡は私をよく陪席させ、私にも発言させてくれた。

にわか仕込みの大勉強
――「週刊診察室―精神科」の執筆――

『週刊朝日』の小松恒夫さんが、新しい企画について大渡に相談にきたのも、その一つであった。各科の専門医に、それぞれのテーマについて約十七、八回、大衆向けの啓蒙記事を書いてもらおうというのである。
私たち三人の話し合いで、第一回めは、循環器疾患について国立東京第一病院の鴨谷亮一高血圧センター主任(現東海大教授) にお願いし、眼科については東京通信病院の高野安雄眼科部長に執筆してもらうことにした。
その第何回めかに、「精神科」をとりあげることになったのだが、そこではたと困ったのは、筆者を誰にするかということであった。
ご存じのように、医学の専門家はそれぞれ比較的せまい分野の研究テーマにうちこんでいる。精神科の場合でいえば、せまい意味の精神病から、神経症、心身症、家庭・職場・老人・性などの精神衛生といった広い範囲にわたっている。精神科にはたくさんの名医がいるが、この全分野について一人の筆者に執筆してもらうということになると、その人選はたいへんむずかしい。私と小松さんは、何人もの名前をあげなから、迷いに迷っていた。
そこへ大渡が顔を出し、私たちの話を聞くと、「よい知恵を貸そうか」といきなりいった。「岡本君にいろいろな先生から取材してもらい、彼に書かせるんだよ」というのだ。小松さんは「それがいい」とすぐ相槌をうった。
私は事の成行き上、引き受けざるを得なかった。しかし、いまさら取材をしてる時間の余裕はない。ただ私には、保健同人診療所の特別相談のなかで、たくさんのケースを実際に見聞きする機会があった。精神科の受診を必要とするのに、精神科を標榜する医師の問をくぐるのをいやがり、家族のはからいで保健同人診療所に来、そこでひそかに精神科専門医の診察を受ける患者がかなりいたのである。
私はさっそく精神科関係の専門書を数冊買いこみ、毎日半徹夜で、これらの本と首っ引きで、頭にあった実際のケースと、にわか仕込みの勉強とを結びつけていった。こうしてそれから四か月にわたって、週一回ずつ、一回に四百字詰九枚の原稿を、三十七年四月から八月にかけて書きあげた。
これは私が、保健同人社の雑誌以外に書いたはじめての連載ものであった。国立精神衛生研究所の加藤正明先生(現所長)が「岡本君、だれの監修なんだい。よく書けているよ」と声をかけてくれた。私は「先生がたから日頃うかがってる話をなんとかまとめただけのことです。誤りはないでしょうね」と答えるのが精一杯であった。

岡本正を励ます会
――芸者のお披露目――

この連載記事の成功を大渡が喜んでくれたのは、いうまでもない。「岡本君、芸者のお披露目をしようよ。きみも一本立ちだ。やりかたについてはぼくにまかせてくれ」といってくれた。それが昭和三十九年八月の「岡本正を励ます会」になったのである。
そのときの案内状がいまも手許に残っている。

保健同人社の編集部長岡本正が、週刊朝日の週刊診察室に執筆の舞台を与えられ、四か月にわたって精神医療の問題を縦横に解説してまいりましたが、今月末をもって終了いたしました。彼はいままで保健同人社創業いらい十九年間、社内の仕事にばかり没頭してきましたが、今回の週刊朝日の仕事で、医学記者としての彼の本領は存分に評価されたと思い、彼のために喜んでおります。
これを機会に彼を医学記者として広く世間に受け入れていただきたく、また併せてはにかみ屋の彼を大いに鞭撻して、その成長を期待したいと思います。
つきましては左記により、岡本正を鞭撻する会を催したいと存じますので、ぜひご参加いただきたくご案内申上げます。
     記
 一、日時 八月二十六日(水曜日)午後五時半より
 一、場所 千代田区神田一ツ橋 如水会館
 一、会費 千円(ビールパーテイ)
    発起人 秋山安三郎
        大和勇三
        足田輝一
        大渡順二
発起人になっていただいた秋山安三郎、大和勇三の両氏は、分野こそちがえ、新聞記者の大先輩として、私が心から尊敬し、私淑していた先達であり、奇しくも二人とも私と同じ、浅草の生まれである。また足田輝一さんは当時の『週刊朝日』編集長であった。
なんともおもはゆい話だが、私はこの会を、一世一代の晴れがましい舞台として、集まってくださった方がたに、ご教示のお礼をいい、今後の精進を誓った。
その日の参会者は、ご都合で出席できなかった人もあろうが、当時の私の交友の一面を物語っているので、そのときの寄せ書きからお名前だけをあげさせてもらう。
医師では結核療養時代の主治医、久留幸男、宮下脩両先生、結核予防会の山口正義、東大の重田定正、順天堂大学の守屋博、東京通信病院の安井修平、関東逓信病院の菅邦夫、都立豊島病院の名尾良憲の諸先生。宮下先生は「いつまでも悪口雑言を願います」と書いている。そのころから私は医師批判を口にしていたのであろう。
ジャーナリストとしては、朝日新聞がさすがに多い。元老の長谷部忠さんをはじめ高松喜八郎学芸部長、足田輝一、小松恒夫、坂崎太郎、伊藤道人はかの諸氏。光文社の黒崎勇さん、まんが家の堤寒三、アヤタクニオの両氏。秋山さんは「好きな男の一人です」と書いてくれた。
学校友達としては、小学校の大沼正(読売新聞社)、中学校の近藤俊夫。高校時代の友人では佐藤哲夫(弁護士)、石川博友(ダイヤモンド社)、石原啓男(医師)、同じ下宿にいた一年先輩の鈴木由次さんは「上野家の二階のときのことを思い出しますか」と書いている。私はこの人によって文学への眼をひらかれた。
結核の療養仲間はさすがに多い。斎藤良輔(朝日新聞)、内ケ崎良太郎(共同通信)、奥島仁太郎、菅野正美(共に医師)、藤井常男(薬剤士)、佐野薫(建築士)、黒坂美和子らは保生園の療友であり、富沢正一さん、和田己喜さんは『保健同人』の読者である。保生園からは職員として船木豊事務長、保生会担当の下田明子さんもみえてくれた。
保健同人社関係の友人としては、画家の尾山職、厚生省の原田正三、経済同友会の山下静一、厚生省OBの栃本重雄、如水会の前島秀博、高橋三郎、ヤクルトの小川達二、親友の竹内治郎、保健婦の井口千鶴子などの諸氏が出席してくれた。
社からは、OBを含めて大渡以下約十七名。この席でいちばん喜んでくれたのは、老いた母と妻の光恵であったろう。誠と哲は七歳と二歳。なにもわからない哲が、会場の周囲を一人ではじゃぎまわっていた。

大和勇三さんの好意

この「励ます会」を契機に、各方面から私への原稿依頼や談話取材がすこしずつふえていった。私にはこのうえなくうれしいことであった。私を育てようという大渡の気持にこたえるためにも、私は社の仕事にも全力をつくし、社外からの要請にもこたえるため、休日も返上して、夢中になって医学の勉強にうちこんだ。その間、私がすべての問題に「患者の立場」で立ち向かったことはいうまでもない。
日本経済新聞の大和勇三さんは、そんな私に、つぎつぎと大きな課題を課した。婦人家庭部長の刈田嘉隆さんと担当の新木万全さんが、その家庭欄に「健康の社会学」の連載を依頼にきたのもやはり大和さんのはからいであったのだろう。
この連載は一回に四百字二枚、週一回の連載ということで、はじめ半年という約束ではじめたのが、だれのお眼鏡にかなったのか、結局、昭和四十三年四月から昭和四十五年三月まで、二年の長きにわたった。合計一〇〇テーマ、それまでの私の勉強の成果を全部さらけだしてしまったといつてよい。