【再掲】母・岡本光恵の葬儀 | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

# 新年のあいさつ(年賀状)に、ブログ一覧をQRコードで掲載しています。

# 大事なお知らせとして、これが一覧に表示されるよう、母・岡本光恵の葬儀を再掲します。

# このブログの最後に告別式/出棺時の挨拶原稿を載せており、母の半生を語っています。

 

私の母、岡本光恵は、2023年4月23日に永眠しました。生前は母がお世話になり、ありがとうございました。

4月28日に、新宿区の瑞光寺にて葬儀を行いました。その時の備忘のためブログに残します。


母は2008年よりうつ病を患い、以降、病院と老人ホームを行き来していました。2018年より日野市の七生病院に入院し、穏やかに暮らしていました。

4月17日、朝食後に一人で歩こうとして転倒し、右足の大腿骨頸部を骨折しました。4月19日に福生市の目白第二病院で人工関節を入れる手術を行い、手術は成功したものの術後の感染症により、4月23日21時に肺炎で亡くなりました。90歳でした。


目白第二病院より菩提寺である瑞光寺へ電話して、中野区にある葬儀会社のセレモニーを紹介していただき、23時過ぎに遺体を葬儀社の安置室へ搬送しました。

4月24日、弟とセレモニーにて打ち合わせ。4月28日に瑞光寺の本堂にて一日葬を行うことを決めました。私は昨年末に退職して無職。弟も定年を先月に迎えたので、家族葬として親戚と家族のみで行います。母は病の影響で、この15年間は家族以外の面会を断っていたため、葬儀の連絡先は限られていました。

4月26日、七生病院と目白第二病院をまわり、母の身の回りの物を引き取りました。七生病院の女性のやや年配の看護士さんから「母が帰るのを待っていた。親しくさせていただき癒やされていた。」と温かい言葉をいただきました。
 


4月27日、北海道の母方の従姉妹より花のギフト券をいただいたので、近所のスーパー三和の花屋にてアレンジメントを作ってもらいました。


4月28日、葬儀当日。家族は11時に瑞光寺集合。三女と私は車で瑞光寺に向かいます。連休前の金曜、渋滞の不安があり9時過ぎに出発したら10時過ぎに到着しました。家内と長女と次女は後から電車で向かいました。弟家族3人は車で来ました。

家族葬ですが大通りから案内が出ていました。
 

葬儀は13時半からのスタート。


本堂に立派な祭壇が出来上がっていました。


母の写真は7年前のジャージを着て首をかしげたものでしたが、きれいな服を着せて修正していただきました。
戒名は篤恵院妙温日光大姉。立派な戒名をいただきました。


ご住職にお布施/戒名料をお渡ししました。金額はご住職に事前に相談しましたが、ネットにある相場金額と概ね同じでした。

母と面会。とてもきれいに化粧していただきました。

 

午前集合なので家族8人は葬儀社に依頼した弁当の寿司を食べました。
 


12時前より親戚が集まり始めました。家族紹介で忙しい。
 

 

 


葬儀が始まりました。ここからは姪にカメラマンをお願いしました。
ご住職とお弟子さんが読経。昔の葬儀と違い意味が分かる言い回しが増えています。年を取りお経が音楽のように心地よく聴こえるようになりました。


遺族の焼香。喪主の私が最初なので、事前に手順は確認しました。


弟の次からは二人づつ焼香。


岡本家の葬儀で毎回起きる焼香順番問題。思わずクスリとしてしまいました。すみません。


続けて初七日法要も行ったので、焼香は2回でした。


約45分の法要が終わり、出棺の準備が始まりました。何人もの葬儀社の方が祭壇の生花を外し、棺の蓋を開けます。


家族と親族が棺に生花を詰めていきます。
 

 

 

 

私の家族が生花を詰めます。妻と長女が急に涙を見せたので、私も泣いてしまいました。
 


ご住職が引導文を棺に入れました。


みんなで棺に蓋をします。


棺に花束を置いて最後のお別れ。


弟と私が並び、喪主の私から挨拶を述べました。末尾に挨拶文を付けました。


出棺です。男手で棺を運ぶので、位牌と遺影は次女と義妹に持ってもらいました。
 


本堂からまっすぐに外へ移動します。
 

 


霊柩車は宮型ではなく洋型(リムジン型)を選びました。
 


喪主は霊柩車に乗るのが一般的なようですが、皆と一緒にマイクロバスに乗りました。


火葬場は落合斎場です。ご住職とお弟子さんも来ていただきました。建物内は撮影が禁止。約40分の控室での待ち時間の様子です。
 


収骨では、母の人工関節の廃却の書類にサインが必要でした。焼き場の方は、母の骨はしっかりしていて70歳台の骨のようだ、と言っていました。

マイクロバスで瑞光寺に戻り、記念写真を取りました。長女と従兄弟一人は出棺で退席。従兄弟一人が加わりました。


葬儀社セレモニーにはしっかり対応していただきました。特に矢吹様には、病院からの移動から対応いただき、感謝しています。


瑞光寺には立派な法要を営んでいただきました。また瑞光寺をここまで発展させていただいた歴代の住職の方々にも感謝しています。


位牌、遺影、遺骨の置き場所を葬儀の日のうちに妻が作ってくれました。妻にも感謝です。


最後に、出棺時の挨拶は下記の通りです。

本日は、母・岡本光恵の葬儀に参列いただきまして、誠にありがとうございました。喪主より一言ご挨拶を申し上げます。
43年前、父・岡本正が58歳でガンで亡くなり、雪の降る中、葬儀を行ったのも、ここ瑞光寺の本堂でした。その時は父の兄弟の皆様にいろいろ助けていただき、ありがとうございました。
さて、父なきあと、母は看護士の資格を持っていたので、東急デパートの医務室に勤務しながら、西荻の家で暮らしていました。私と弟の哲が結婚して家を出てからは一人暮らしとなりましたが、趣味の油絵や旅行を楽しみながら、充実した生活を送っていました。
しかし15年前、2008年から、眠れない、心臓が止まりそうだ、といった不安を訴える電話が私にかかってくるようになり、その年の暮に、手首を切ろうとして、杏林大学病院に緊急入院して、うつ病と診断されました。
その後、三鷹の長谷川病院、稲城の稲城台病院、新宿の国立国際医療研究センターへの転院がありました。またうつ病は数ヶ月の波があり症状が改善されると退院して、ニチイホームはるひ野、そんぽの家稲城矢野口という介護付きホームで暮らした時期もありました。
5年前より日野の七生病院に入院し、落ち着いた病院生活をおくっていました。コロナ禍で面会が禁止されましたが、2年前よりオンライン面会ができるようになり、月1回はパソコン越しに顔を合わせることができました。今月も4月7日にオンライン面会したときは、三女の真紀にも参加してもらい一緒に会話しました。また、長女の真奈の子供、母には初めてのひ孫の写真を見せた時は、嬉しそうな顔を見せていました。
4月17日、母は食事後に一人で歩こうとして転倒し、右大腿骨を骨折しました。福生の目白第二病院へ転院して、4月19日に人工関節を入れる手術を行いました。手術は成功しましたが、その後の感染症が悪化して、4月23日夜の9時に息を引き取りました。90歳でした。
母の人生、終盤はうつ病で苦しみましたが、ボケることなく自分で食事をし、介助されてながらも歩くことができ、孫ともオンラインで会話して、悔いのない人生だったと思います。そして今日皆様に温かくお見送りいただき、母もよろこんでいるでしょう。天国で父と再会することを楽しみにしていると思います。
本日は、お忙しいなかご参列いただき、誠にありがとうございました。

以上