こんにちは。

アレテーを求めて~

今日もトコトコ( ・ω・)

弁護士の岡本卓大です。

 

 

『補講』より深く憲法を知りたい人へ

 

 

本編の

『宇宙一わかりやすい僕らの憲法のお話( ・ω・)』も、

いよいよ『人権』の問題に入ってきたので、ここで、日本の憲法史について、

確認してみたいと思います。

 

今日は、日本の憲法史前編。大日本帝国憲法のお話です。

 

日本には、明治時代以前には、立憲主義的な成文憲法は存在せず、

近代的憲法の歴史は、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法(明治憲法)

から始まります。

皇室典範も同じときにできたのでした( ・ω・)

 

 

大日本帝国憲法は、立憲主義憲法とはいうものの、

神権主義的な君主制の色彩が極めて強い憲法でした。

 

 

大日本帝国憲法1条は、

「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」として、

主権が天皇に存することを基本原理とし、この天皇の地位は、

天皇の祖先である神の意志に基づくものとされていました。

 

また、天皇は、神の子孫として神格を有するとされ、

「神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法3条)

(神聖にして侵すべからず)とされていました。

 

さらに天皇は、

「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧」(大日本国憲法4条)する者、

すなわち、立法・司法・行政などすべての国の作用を究極的に

掌握し統治する権限を有するものとされていました。

 

そして、皇室の事務に関する大権(天皇の権能)のほか、

栄典の授与に関する大権、とくに、

軍の統帥に関する大権(大日本帝国憲法11条)が、

一般国務から分離・独立し、それに対する内閣・議会の

関与が否定されていたことは、重大な問題でした。

 

統帥権とは、本来は、作戦・用兵の目的を達するために

陸海軍を統括して活動させる国家作用についての権限です。

この作用は、性質上、専門的知識をもって機密裡に迅速に

行われることが必要なので、国務大臣の輔弼(ほひつ)の外に

置かれ、天皇が単独で行うべきものとされました。

しかし、実際には、政府からまったく独立の地位にあった

軍令機関(陸軍参謀総長・海軍軍令部総長)が輔弼の任を務めました。

昭和初期、軍国主義が支配的になるにともない、陸海軍大臣が武官で

あったため、大日本帝国憲法12条の定める軍の編成・装備などに

関する事項(国務大臣の輔弼に属するもの)も、統帥事項だとされ、

軍部の独裁を導く引き金となりました。

 

他方で、大日本帝国憲法には、立憲的諸制度も採用されており、

それらが日本の近代化に果たした役割は大きいものです。

ただ、それぞれ不完全な面を有していました。

 

権利・自由は、保障されていたものの、

それは人間が生まれながらにもっている生来の自然権(人権)を

確認するという形のものではなく、

天皇が臣民に恩恵として与えたもの(臣民権)でした。

各権利が、「法律の留保」を伴うもの、すなわち、

「法律の範囲内において」保障されたにすぎず、

法律によれば制限が可能なものでした。

 

統治の部分でも、

①権力分立制はとられていたが、それぞれの機関は天皇の大権を

翼賛する機関にすぎませんでした。

帝国議会は、天皇の立法権に「協賛」し(大日本帝国憲法5条)、

各国務大臣は、所管の行政権につき天皇を「輔弼」し(大日本帝国憲法55条)、

裁判所は、司法権を「天皇ノ名ニ於テ」行う(大日本帝国憲法57条)ことと

されていました。

 

②法治主義の原則も、形式的法治主義にとどまり、

権力を法によって制限するという観念は希薄でした。

 

議会の権限は、立法の面でも、予算についても、

緊急事態に対する措置に関しても、

大きく制限されており、政府や軍部に対する

コントロールの力は極めて弱く、

また公選に基づかない貴族院が衆議院と同等の

権能を持ち、衆議院を抑制する役割を果たしました。

 

④さらに、大臣助言制が採用されていましたが、

それは各国務大臣が単独でその所管事務について

輔弼(助言)するということであり、

内閣制度は、憲法上の制度ではありませんでした。

各国務大臣は、天皇に対して責任を負うだけで、

憲法上は議会に対して責任を一切負いませんでした

 

そのような神権主義的な色彩の極めて濃い立憲君主制を基本とする

大日本帝国憲法でしたが、それをできるだけ自由主義的に解釈しようとした

立憲的な学説の影響や、政党の発達とともに、大正時代から昭和の初めにかけて、

いわゆる『大正デモクラシー』が高揚し、政党政治が実現した時期もありました。

 

しかし、その後、軍部の勢力が増大し、ファシズム化が進展して、

天皇機関説事件などが起こり、大日本帝国憲法の立憲主義的な側面は

大きく後退し、日本は、日中戦争、そして太平洋戦争へ突入していくこととなります。

 

ドイツは、大統領緊急令(緊急事態条項)と全権委任法により民主主義を失いましたが、

大日本帝国憲法下の日本は、そもそも、独裁が可能な憲法体制であったと言えます。

 

 

 

なお、憲法機関説事件について、少し書いておきます。

 

国家は、法的に考えると一つの法人。

 

 

したがって、意思を有し、権利(統治権)の主体である、と説く国家法人説が、

19世紀ドイツでイェリネクによって体系化され、支配的な学説となりました。

この理論は、君主、議会、裁判所は、国家という「法人」の「機関」であること、

国家は、その機関を通じて活動し、機関の行為が国家の行為とみなされること、

君主に主権が存するとは、君主が国家の最高の意思決定機関の地位を占めるという

ことにほかならないこと、などを内容とするものでした。

これを日本にあてはめたのが、「天皇機関説」です。

 

天皇機関説は、天皇が主権者であり、統治権の総覧者であることを否定する理論では

ありませんでしたが、天皇を国家の最高機関と位置づけ、主権をその機関意思だと構成したために、

日本の軍国主義化が進むにともなって、「国体」に反する異説とされ、

政府は、1935年、この説の代表者だった美濃部達吉の著書を販売禁止処分に付し、

すべての公職から追放しました。

東大教授であった美濃部達吉の天皇機関説は、当時の憲法学の通説的な学説でしたが、

この天皇機関説事件により、美濃部の天皇機関説は国禁の説とされ、政府の公定解釈が、

憲法学の世界に押しつけられることにもなりました。

 

当時の世論でも、天皇機関説を批判する声はかなり上がったようです。

その中には、「天皇を巡査と同じ機関というとは、なんと不敬な!」

といった、まったく学説の内容を理解していない人々の無知に基づく攻撃も

多かったようです。

日本の近代史において、理性や知性が、無知な熱狂に打ち砕かれた事件とも言えます。

 

なお、余談ですが、戦前の東京帝国大学の憲法学で、

美濃部達吉の天皇機関説と「国体論争」で激しく争った学者がいます。

上杉慎吉という憲法学者です。国粋的な憲法学者として有名でした。

憲法学会では、美濃部達吉の天皇機関説が大正デモクラシーを

支える理論的支柱となっていきました。

天皇機関説事件で、国禁の説とされるまでは・・・

 

憲法学会で美濃部に敗れた上杉慎吉の弟子には、とても有名な人がいます。

第56代、57代内閣総理大臣 岸信介

憲法改正に強い意欲を隠さなかった、

故・安倍晋三元総理の祖父です。

 

この歴史の糸は偶然なのか、

それとも、日本国憲法を敗戦によりアメリカに押しつけられた

恥ずかしい憲法であり、自主憲法制定をと叫ぶ人々のルーツに

なんらかの影響を与えている、ミッシングリンクなのか・・・

 

あなたは、どう思いますか?

読んでくださり、ありがとうございました。