息子を助けたあと、私にはある心の変化と、「気付き」がありました。

 

その気付きとは、

、私は子どもではなく、親だという自覚が芽生えたことです。

今更ながらでしたが、私はすでに息子を出産(約7年前に)していて、女の子ではなく、母親になっているということでした。

しかし、母親として、どのように息子を導いてよいのか?が、全く分かりませんでした。

と言うのも、私の両親は内面が子供のままで(岡田式AC判別法の50%タイプで発達障害がある)親としての自覚が無く、「正しい親の見本」とは、かけ離れていたので、実母とは真逆の「良いお手本」を探さなければいけなかったのです。

 

2、私は、すでにシングルマザーになっているという事でした。

私には、サポートしてくれる、夫や親兄弟はなく、自分が一人で息子を教育し、養育していかなければいけない現実と、養育費・慰謝料等の経済的な援助も全くないと言う事でした。

そして、生まれ故郷を離れ東京に移住したため、頼れる友人・知人もいないことを自覚しました。

 

3、インナーチャイルドの存在に気が付いたのです。

息子の事が愛おしくなればなるほど、幼少期の自分自身が可哀想すぎて、いたたまれなくなり、心に大きな「ぽっかり」を感じるようになりました。

心に空いた穴は日増しに大きくなるように感じ、仕事を終えて一人になると、今までに体験したことのない、押しつぶされそうになる「孤独感」を感じるために、自分をより過酷な場所において、ボランティアを含め、オーバーワークを重ねました。

私が「うつ病」にならなかったのは、息子への母親としての強い責任感があったからです。

息子のおかげで、助けられたのです。

 

4、現実の苦しみから逃げるには、死ぬしかないと考えました。

押しつぶされそうな孤独と、オーバーワーク・不慣れな子育て・母からの電話による嫌がらせによって、身も心も、くたくたになっていました。

そんな時「ふと」頭によぎったことは、「今、楽になりたい!!」ただそれだけでした。

楽になるには、どうすればよいのかを真剣に考えだした時、二つの選択肢がありました。

①このまま全てを無視して、死ぬ事(自分中心的な考え)

②息子を置いては、死ねない(親としての責任を果たす)

忙しい1日の予定が終わり、息子の寝顔を見ながら、毎晩①と②の考えが交互に押し寄せてきて、私を苦しめました。

そんな中、大先輩のお母さんから「子どもは必ず成長し、いつの日かあなたを助ける時が来るから、苦しいのは今だけよ!」と言ってもらえた言葉が、私の生死を分けました。

 

5、私の母親は、最悪で悪い人間だということが自覚できました。

友人の親たちと比較して、幼少期から十分に分かっていたことですが、シングルマザーとなり、より過酷な現実を生きなければいけなくなって、初めて真実が見えたのです。

しかし、日本社会の風潮は「儒教」の精神があり、悪い親は存在しておらず、親を悪く言う子供は、許されませんでした。

そこで、誰にも知られずに、こっそり未熟な私の母親に向かって(カセットテープの中に)、言いたいことを吐き出したのです。

その内容は、私の愚痴ではなく、本来ならば、祖父や祖母、叔父や叔母が私の母に向って「娘に負担ばかりかけずに、しっかりとした母親(大人として)として、努力をしなさい」と叱って導くところを、私が彼らに取って替わり、「母親を叱ったのです」

それがミュージカルの原稿を作るきっかけとなり、CD「FAMILY」の原型となりました。