ども、出汁味のポップコーンにハマっている岡田達也です。

 

 

 

 

母・秀子さんの兄・節さんが亡くなった。

(私の伯父ですね)

 

節さんは7人きょうだいの長男。

 

畑を耕し、米を作り、二十世紀梨を育て続け、

 

余計なことを口にせず黙々と働く人だった。

 

92歳での幕引きは大往生と言っていいだろう。

 

 

 *

 

 

通夜、葬儀のため、関西に住んでいる弟たちが鳥取にやってきて、そのうちの二人が我が家に宿泊した。

 

我が家に泊まったのは、三男(強)と四男(健一郎)。

 

ちなみにーー

 

強さんが工業高校の建築科を卒業し、設計技師になった姿を見て憧れたから僕も同じ道を進もうと思ったのだ。

 

結果、僕はすぐに挫折したけど、今の僕の人生に大いに影響を与えてくれた人と言っていい。

 

 

そんな昔話も含め、久しぶりに飲んで飲んで、しゃべってしゃべった。

 

当然、亡くなった人たちの思い出話にもなる。

 

秀子さんの話も出てきた。

 

この二人は……

 

というか、ここのきょうだいは全員が仲が良いのだけど、

 

とくに秀子さんはみんなから頼りにされていた。

 

強さんも、健ちゃんも秀子さんのことが好きだったので、

 

「秀子ちゃんはきょうだいの中でも特別な存在やったなぁ」

 

「ホンマやなぁ」

 

「絶対に出しゃばることはないけど、困ってる人がおったら後ろからスッと手助けできる人間やった」

 

というような会話になる。

 

同感だ。

 

自分のことではないけど、とても誇らしい。

 

 

 *

 

 

秀子さんに病気が見つかって、彼女の「死」が初めて現実味を帯びてきたとき、僕は少なからず動揺していた。

 

僕にとって

 

母親であり、

 

育ての親であり、

 

頼りになる人であり、

 

一番の理解者であり、

 

最高の話し相手だ。

 

「人は必ず死ぬのだからその覚悟を持っていなさい」と常に言われていたものの、

 

“実際に母が亡くなったら自分はどうなるんだろう?”という恐怖みたいなものがあった。

 

だけど、

 

秀子さんが他界し、

 

きょうだいが駆けつけてくれて、

 

秀子さんと対面したくさんの涙を流してくれる姿を見ていたら、

 

「この人たちがこんなに悲しんでくれているのだから自分は大丈夫」という不思議な気持ちなって、とても穏やかに母を見送ることができた。

 

僕が泣かないですんだのは、この心優しい叔父たちのおかげだ。

 

また一緒に飲んで故人を偲ぼう。

 

 

 *

 

 

節おじちゃん、いろいろとお世話になりました。

 

無口なおじちゃんだったから、秀子さんに再会してもベラベラ話すことはないだろうけど、水入らずの時間を過ごしてゆっくり休んでください。

 

本当にお疲れ様でした。

 

 

 

 

では、また。