ども、器が小さい岡田達也です。
父・隆夫さんは高齢者だが
頭はとてもしっかりしている。
まったくボケていない。
……はずだ。
*
昨日、父と僕の間で小さな論争が起こった。
誕生日、隆夫さんにスシローをご馳走してもらったのだが、それがよほど美味しかったのだろう。
隆夫さんが反芻しながらしみじみと言った。
「やっぱりスシローはウマいなぁ」
「そうだね。美味しかったね」
「くら寿司はどうなんだろうなぁ? 美味しいんかなぁ? 食べたことないけぇわからんなぁ」
「……お父さん」
「なんだ?」
「一緒に食べたよね?」
「えっ?」
「二人で、くら寿司に行って、食べたよね?」
「知らんでっ! 食べてないでっ! 行っとらんでっ!」
「……」
*
実は、我が家からの距離で言えば、スシローよりくら寿司の方が断然近い。
約半分の距離で行ける。
だけど
何がきっかけだったか忘れたが、先にスシローデビューしてしまい
その魅力にすっかりハマってしまったので、くら寿司に行くことは無かったのだ。
まぁ、それで何も問題なかったのだけど
だけどだけどだけどだけど
あまりにも食い意地が張った隆夫さんが
くら寿司の前を通るたびに
「くら寿司はどうなんかなぁ?」
「くら寿司はうまいんかなぁ?」
「くら寿司とスシローではどっちがええんかなぁ?」
と、後期高齢者なのに
まるで中学生が恋心を抱いたときのような
寝ても冷めてもみたいな発言を繰り返すので
だったら一度食べてハッキリさせようよ
それで、もしもくら寿司の方が好みだったら、距離も近いから僕もありがたいし、これからはそっちにしようよ
という提案で
去年の秋、ランチを食べに行ったのだ。
そして、隆夫さんはハッキリ言った。
「やっぱりスシローのほうがええなぁ」
*
「行ったよね? ランチを食べたよね? 「スシローの方が好きだ」って言ってたよね?」
「知らんでっ! 食べてないでっ! 行っとらんでっ!」
「行~き~ま~し~た~」
「くら寿司は行っとらん!」
「びっくらぽんを見て、「これはようできとるなぁ、皿を片付けんでもええもんなぁ」って感心してたよね?」
「くら寿司は食べとらんっ! ……はずだ」
「流れてくる皿にフタがしてあって「今の時代にはええなぁ」って感心してたよね?」
「くら寿司は行っとらん! ……ような気がする」
「行~き~ま~し~た~」
「……」
ここで、僕は、
どこかしら意地になって、父を追い込んでいる自分を恥じた。
いいじゃないか
本人が「行ったことない」と繰り返してるのは、ボケたのでもなんでもなく、ただ悪気もなく忘れているだけなんだから
あまり記憶に残らなかっただけなんだよ
だから、何度かやり取りして思い出さなかったら
「あぁ、そうだね、そうだったね、行ってなかったね。じゃ今度行ってみようか?」
そう言ってあげればいいだけじゃないか
それで世の中は丸く収まるんじゃないのか?
なんで老い先短い老人にどうでもいい正論をぶつけて正そうとするのだ?
それがそんなに大事なことか?
大切なことはもっと他にあるんじゃないのか?
心が狭いぞ、自分
*
僕は一つ深呼吸して言った。
「わかった。じゃ、今度くら寿司に行ってみようよ」
数秒の沈黙の後、隆夫さんが言った。
「いや、スシローがええな」
「……」
クソ親父
二度と「くら寿司はどうなんだろうなぁ? 美味しいんかなぁ? 食べたことないけぇわからんなぁ」とか言うんじゃねぇぞ
と、思ってしまった僕は心が狭いのでしょうか?
度量を大きくしたいです。
では、また。