ども、イチロー選手の背番号になった岡田達也です。

 

 

 

昨日のつづき。

 

 *

 

自分自身の

性格や性質や

身長や体重や

顔や形なんかは

自分と22年も付き合っていれば何となくわかる。

 

でも……

「これから自分が向かうべき道は?」

という大切な問いに、僕は明確な答えが出せないでいた。

 

これこそが

誰もが経験する

人生にとっての大きな課題であって

生きていくためには避けては通れない問題なのに。

 

考える時間はたくさんあったのに。

 

 *

 

子供のころ

なりたかった職業がいくつかある。

 

1970年代前半

床屋さんに憧れた。

おそらくこれは

自分が髪の毛を切ってもらってるときの気持ちよさ

それと

カットしてもらってるときのリズミカルなハサミの音が好き

そんな理由だった。

 

1970年代後半

阪急電車の運転手に憧れた。

これはそのボディ(車体)の美しさ

他の鉄道に比べて群を抜いてキレイな車内

に心を奪われたから。

 

1980年ごろ

設計技師に憧れた。

叔父が建築士として活躍している話を聞いて

「家を設計するってかっこいいなぁ」

と思ったから。

実際、僕はそれをキッカケに工業高校の建築科に進むことにした。

 

 

だけど

それぞれ違う理由で、その道を進もうとは思わなくなった。

 

「好き」は変わる。

 

 *

 

1990年1月

大学卒業直前

 

僕は観念した。

 

もう悩むのはやめて鳥取に帰って働こう

仕事は何でも良いじゃないか

ただでさえ田舎なわけだし

こちらが望む仕事が転がっているとは思えないし

 

ただし。

 

帰る前に東京に行きたい

どうしても行ってみたい

それだけは何が何でもクリアしておきたい

 

だって!

学生の頃、雑誌で読んだ東京の街には、全てが揃っていたじゃないか!

あれも、これも、それも、どれも……

無いものが無い街!

それが東京らしい!

 

東京って一体どんな街なんだ?

 

渋谷って本当に平日でもあんなに人がいるのか?

原宿に行くだけでナウいのか?

歌舞伎町に行ったらヤクザになるしかないのか?

上野のパンダは鳥取砂丘のラクダより可愛いのか?

 

せめて2年

東京の街でフリーターでもやりながら

東京の空気を吸い倒してやろう

この目で確かめてやろう

 

そう思った。

 

 *

 

時を同じくして。

 

「岡田くん、就職活動もしないでフラフラして。もしもやりたいことがないのなら役者になりなさい。私は向いてると思う」

 

大阪芸術大学芸術学部放送学科、高木先生の言葉だ。

僕の恩師。

 

後日先生に確かめたところ

「なんで私そんなこと言ったんだろう? ていうか、本当にそんなこと言った?(笑)」

と自分でも不思議がっていた。

 

これは僕の想像だけど……

先生はプライベートでお芝居をやっている方だった。

お芝居が好きな人だった。

 

で。

クラスの中で唯一、将来のことを決めないで、フラフラしてばかりの僕に業を煮やして、思わず言ってしまった言葉なんじゃないか?

……と僕は思っている。

 

 *

 

これは使える

これで堂々と東京に行ける

そう僕はひらめいた

 

我ながら本当にひどい話だと思う。

 

今でもこうして何度も何度もこの件を書いてしまうのは

30年経った今でも

あのときの罪悪感が消えなくて

というか、消せなくて

僕は本当に役者になったけど

でも

あのときは先生の言葉を東京行きの理由に利用しただけで

それって大好きだった先生を騙したのと一緒じゃないか……

 

それは

誰かに迷惑をかけたわけじゃないし

あくまでも自分の中の問題ではあるけれど

それでも“しこり”になって残っているわけだから

僕の人生においての大事な大事なポイントだったんだろう

そう理解している。

 

 

 

つづく

 

 

追伸

「ざっくりとした年表」とか言いながら、今日はざっくりとしてないし、年表にもなってないし、そもそも今日で終わらせようと思っていたのに筆が滑って「つづく」になってるし、相変わらず何一つ上手くいかない僕ですが、昨日、無事に51歳になりました。

 

たくさんのお言葉、ありがとうございます。

明日、改めてお礼を書かせていただきますね。