ども、仕切り役の岡田達也です。
僕は“わりと自由に”育てられたと思っている。
(ひょっとすると本人の大いなる勘違いである可能性含む)
「ああしなさい」
「こうしなさい」
「勉強しなさい」
「良い学校に行きなさい」
とは言われなかった。
あまりの放ったらかし振りに僕は母・秀子さんに尋ねたことがある。
「なんでこんなに放任主義なの?」と。
「「へぇ、健常者はこんなふうに育つんだ」「こんな反応するんだ」ってことがいちいち面白くてね。見てて飽きなかったし。だから息子というより、1人の人間として付き合ってる感じだった」
なるほど
兄・浩一くんが先天的に知的障害を持っていたため
母・秀子さんはいろんな苦労があったらしい。
その次に生まれた僕は彼女にとって“面白い存在”だったようだ。
そんな秀子さんだが……
生きてるときに、いくつか注文されたことがある。
普段は何も言わない人だからこそ
その数少ない注文はズッシリと重みを持って響く。
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「東京に行く」と言ったとき
「行ってもいいが、税金、年金、保険料をキチッと払ってほしい。その当たり前の義務が一人前にできないなら帰ってきなさい」と言われた。
秀子さんの言う通り当たり前のことなんだけど、大切にしようと思った。
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「人はいつか死ぬ。あなたも私も。その覚悟はしておきなさい。だから後悔がないように生きないと、ね」
生涯看護婦さんとして活躍した人の言葉なのでこれも重みがあった。
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「私が死んでもお願いだから一周忌とか何もしないでね。お参りも、お祓いも、御仏前のやり取りも、お返しもしないでいい。もしも何かやるというなら、私の兄妹を集めて食事会をやってくれればそれで十分」
大袈裟なことになるのを嫌ったーー
というか自分のことが前面に押し出される時間を嫌った、彼女らしい言葉だった。
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昨日、無事に数少ない言いつけを守りもって食事会を開いた。
兄妹を集めた食事会
美味しい食事とお酒と
そして秀子さんの話をたくさん楽しんだ。
まぁ、覚悟はしていたけど
父・隆夫さんがはしゃぎっぷりがすごくて……
秀子さんの「お父さん、もうやめて!」という声が
食事の間中、僕の耳には聞こえてたけど。
お母さん
まぁ、あれくらいは許してあげましょうよ
お母さんのいない淋しさの反動ですから
*
京都の岡崎動物園にて
秀子さん(34歳)と筆者(5歳)
では、また。