ども、ギリギリを歩いている岡田達也です。

 

 

 

『ポセイドンの牙』

折り返しを迎えて、残すところ5ステージ。

 

あくまでも個人的な意見だけど……

芝居が太くなって安定してきたように感じられる。

みんなのパワーがストレートに伝わり始めたというか。

それはとても良きこと。

最後までこの調子で飛ばしていきたい。

 

と、思いつつ。

パワーが必要な芝居ということは、イコール大きな声が必要ということ。

僕を含め、何人かの役者の声がかすれ始めてきた。

 

「完全に声が嗄れる」のはよろしくない。

だけど

「多少かすれる」のは悪くない、

と僕は思っている。

 

 *

 

昔々、僕がデビューしてしばらく

そのあまりの下手さに手を焼いた成井さんが、僕にすべてのセリフの言い回しを授けた。

(……誰だ?今でもそんなに変わらないって言ったのは?)

強弱、プロミネンス(強調)、スピード、緩急、メロディ、句読点の捉え方、

僕はひたすらそれを真似する。

「口立て」と呼ばれる方法だ。

 

でも、それすら上手くできない。

「違う、違う、違う!」の連続だ。

自分ではコピーしているつもりだけど、口から出てくる音は違うらしい。

 

ま、結果はともかく。

だからこそ咽を嗄らすわけにはいかなかった。

嗄らしてしまうと「コピーができない」

つまりは「出したい音が出せなくなる」から。

 

それからしばらくして、少しずつ成井さんの求めているものが理解できるようにはなってきた。

だからこそ、余計に「成井節」を意識して、頭の中で構築された音(セリフ)を発音しようと必死だった。

 

そんなとき。

先輩に言われた。

「嗄らしてからが勝負だ」と。

それが西川さんだったか近江谷さんだったか上川さんだったか忘れてしまったが。

(ひょっとすると3人とも同じようなことを言ってくれていた気がする)

 

最初は何をおかしなことを言うのだと思った。

声なんか嗄れないほうが良いに決まってる。

 

「声を嗄らすと出したい音が出せなくなるだろ?そうなったとき、人間って不思議なもので、違うものでカバーしようとするんだよ。自分が感じている感情を、音色で表現できなくなったとき、どうするかが勝負どころだ。案外、そっちのほうが意外な音が出てきたり、意外な感情になったりして面白かったりするんだよ。特にオマエはセリフをなぞろうとする癖があるから」

 

もしも、この日記を役者さんが読んでくれていれば、膝を叩いて納得する人がいるかもしれない。

反対に、まったく理解できないという人もいるだろう。

 

僕はこの理論を信じた。

誤解を恐れずに言えば……

それから少しずつ、少しずつだけど、僕のセリフはいい加減になった。

出したい音を明確に決めなくなった。

 

“こんなかんじ”

“こんなふう”

“そのような”

 

とてもアバウトなところでセリフを発するようになってきた。

(……誰だ?オマエの芝居はアバウトすぎるって思ったヤツは?)

 

 

この続き、本当はもう少し書きたいけど、長くなるのでまたの機会に。

 

 *

 

だから。

声がかすれている今、

「おい、オマエ、どうするんだ?良い声でしゃべれなくなってきて、何が出てくる?」

と、自分で自分を意地悪な目で見て笑ってしまう。

でも、それでいい。

昔の自分なら涙目になっていたはず。

 

 

もしも。

若い役者さんがこの日記を読んでくれているなら、このことはどこか心に留めておいてくれると嬉しいかも。

そのうち必ず意味がわかるようになると思うから。

 

 

 

では、また。