ども、結局採血の様子は目の端でしか捉えられなかった岡田達也です。






父方の祖母が亡くなったのは僕が中学2年生になったばかりの春休み。

父親の妹(つまり僕の叔母)の家が大阪にあり

その家におばあちゃんや

僕をはじめ孫たち(つまり僕の従兄弟連中)が集まっているときだった。


おばあちゃんは80歳に手が届いているというのに

それはそれは元気な人だった。

大阪だけではなく

鳥取に行ったり倉吉に行ったり、と

自分の子供たちの家を精力的に回っては美味しいものを作り家を掃除する人だった。


ここから先何かのパンフレットに書いた話で申し訳ない。


その日もおばあちゃんは朝から元気に動き回っていた。

夕方、僕は声を掛けられた。

「たっちゃん、夕飯の買い物に行こう」

従兄弟と遊ぶことに夢中だった僕は渋った。

おばあちゃんはちょっとだけ寂しそうに一人で出掛けた。

その日の夜。

夕食を済ませたおばあちゃんは先に寝床に入った。

が、9時くらいになって起きてきた。

「たっちゃん、ちょっとしんどいけー、肩を叩いてくれ」

僕はおばあちゃんを布団の上に座らせ肩揉みを始めた。

そこからわずか30分ほどでおばあちゃんの様態が明らかに変わった。

ユラユラと揺れ始めたのだ。

僕は何度も

「おばあちゃん、ちょっと病院に行こうか」

と声を掛けるのだが

「朝になってもしんどかったら行く」

と言って動こうとしない。

が、さらに時間が経過しおばあちゃんは返事すらしなくなっていた。

僕は従兄弟に声を掛け救急車を呼んでもらい

叔父と叔母を叩き起こした。

到着した救急車に僕はおばあちゃんと一緒に乗り病院に向かった。


おばあちゃんは救急処置室に運び込まれ

僕と叔母が付き添った。

救急隊員の人に訊かれた。

「こちらの方の生年月日は?」

叔母は動揺のせいもあっただろうが

「すみません、知りません」

と返事した。

「明治34年9月20日です」

僕は代わりに答えた。

叔母は驚いた顔をしていたが

僕はもう一度念を押した。

「間違いないです」


本当に偶然だけど

おばあちゃんと話をしているときに

昭和天皇と同い年であること

従兄弟の慎ちゃんと同じ日が誕生日であることを聞いていて

それが印象深く残っていたのだ。



自分の両親が倒れて運ばれると決まった訳じゃない。

それでも親の誕生日は言えた方が良い。

こんな経験をしてると強く思う。

だから僕は

親の誕生日を言えない知り合いを見つけると

「覚えておいて損はないよ」と

ついついお節介を焼いてしまう。

でも、それでいい。

多分、間違いじゃない。



そんなわけで。


秀子さん、お誕生日おめでとう。


健康で長生きしてください。

どんなに頑張っても

あなたみたいに生きることはできないけど

あなたの息子で良かったと思いながら生きているので。






では、また。