ども、久しぶりの落語に大満足の岡田達也です。






立川談春独演会

『死神の精度』『棒鱈』。


舞台版『死神の精度』が終わったあと

同じ空間で『死神の精度』の落語版。

チョイスしている話は違えども

(死神の精度は短編集なのでね)

作品の持つテイストは同じ香り。

(原作者が一緒なんだから当たり前だ)


真柴あずき、渾身の台本。

素晴らしい。

楽しませてもらった。


にしても。

落語家の持つパワーの凄さ。

ただただ脱帽。


特に

談春師匠のレベルだからこそ

というのはあるだろうけど

たった一人で

460人を相手に

あれだけの時間を

退屈させることなく

惹き付ける力。


一体

何を原動力にして

何を思いながら

何を目指して

しゃべり続けているのだろう?


やはり笑いなのか?


談春師匠ではなく

兄弟子である志の輔師匠のインタビュー記事で見つけたものだけど

「究極は高座に上がって何もしゃべらないこと。

それでお客さんが満足してくれるような噺家になりたい」

という話があった。


人だ。


その人自身の存在が求められるようになりたい

ということだろう。


実際問題

噺家が何もしゃべらないで木戸銭を頂く

なんて不可能な気もするけれど

それでも

五代目・志ん生師匠が

ある日の高座で寝てしまい

(おそらく酔っぱらっていたんだろう)

慌てて起こそうとするお弟子さんに向かって

客席から

「そのまま寝かせてやれ!」

という声が飛んできたのは有名な話。

そこにいるだけでいい

の極めつけのようなエピソードだ。


そんな人は今のところ志ん生師匠だけだろうけど

そこに憧れている人は多いのだろう。


ま、談春師匠がそう思っているのかどうかはわからないが。

打ち上げの席で訊いてみようか

なんて大胆なことを考えたりもしたけど

本人を目の前にすると何も言えなかった。




噺を聴いている間

表現方法は違えど

舞台人として

そんな風になれたらな

なんてことを思ってしまった。


でも……。

やっぱりダメだな。


舞台俳優が

登場して何もしゃべらないと

ただただ演出家に怒られるだけだ。

お客さんも不思議に思うだけだろうな。

「そのまま寝かせてやれ!」

じゃなくて

「岡田達也、寝てるのか!」

って声が聞こえてきそうだ。



さあ、今日も頑張ってしゃべってこよう。






では、また。