ども、今までにないほどの長文を書いたところで全て消えてしまい泣きながら書き直している岡田達也です。






10月22日。
みんなより一足先に大阪入りし
我が母校、大阪芸術大学に行ってきた。
卒業して2回目、12年振りの訪問である。


大阪芸術大学。
不思議な不思議な学校である。
未だに実態が掴めない謎の学校である。


そんな学校に何故入学したのか?
今日はそんなお話を。




鳥取工業高校建築科に通っていた達也少年はフラフラしていた。


設計技師を夢見て入学したのだが
入学して一週間で自分の製図のレベルを思い知らされ
「ああ、人間には向き不向きがあるのね」と勝手に理解し
その後の3年間は課外活動に精を出していた。
(担任の先生、母上様、その節は本当にご迷惑をお掛けしました)


そのフラフラしていた3年間。
「自分は何者になりたいのか?」
「果たして何者かになれるのか?」
「そのためにはどうすれば良いのか?」
というような、若者にありがちな悩みを一通り抱え悶々と過ごしていた。
ただ、なんとなく、東京に行きたいな
という田舎の若者特有の思いはキッチリと芽生えていた。
今考えると蒼すぎる。
もしも、今、鳥取にいる高校生が「なんとなく東京に行きたい」などと口走ったら
鼻血が出るほど頭突きをかまし
泣くまで説教してやるであろう自分がそんなことを考えていたなんて。
ま、それはさておき。


3年生になったある日。
この日記にも度々登場するやんちき(本名・山崎顕司)が声をかけてきた。

「タツ、卒業したらどうすんの?」
「いや、別に……」
「就職活動もしてないだろ?」
「うん、まあ……」
「俺な大阪芸術大学ってとこ受けようと思っとるんだけど、一緒に受けんか?」
「大学?」
「俺は建築学科を受けるんや。タツはもう建築やらんのだろ?でもな他にもよーけ(たくさんの意)学科があるけ選び放題だで」
「いやー、でも俺らの頭じゃ大学は無理でないか?」
「それがな、大阪芸術大学は東京の芸大と違って偏差値が幅広くてな。俺でも受かるかもしれん」
「幅が広い偏差値って、それ偏差値じゃねーだろ」
「まあええがな。可能性があるっちゅうことはエエことだ」


大学。
全く興味がなかった。
範疇になかった。
いや、仮にこちら側に入りたいという意志があったとしても
こんな男を受け入れる学校が存在するとは思えなかった。


「それにな、受験の間は公休扱いだで」


これは惹かれた。
そうか、そうか。
大阪見物(あ、試験か)してても公休ってのは嬉しい。
胸を張って学校を休める。
それに「大学受験」なんて自分には縁のないものだと勝手に思っていたが
経験しておいて損はないだろう。
ちょっとカッチョイイではないか。


やんちきの指導の元、学科選びを始めた。
学科ごとに試験日がズラしてある。
複数の学科が受けられるそうだ。
やんちきは建築学科と環境計画学科という二つをチョイスした。
僕は「放送学科」を受験することに決めた。
深い理由は何もない。
何となく、だ。
何となく「派手そう」だったから。
しかもこの時点では合格するとも思ってなかったので
「受験料も安い方がいいだろう」と一つしか受けないことにした。



どうだ?
僕の大学受験はこんな動機である。
こんないい加減な理由が許されるのか?
でも事実だからしょうがない。
しかも大阪芸術大学はそんな男を受け入れてしまったのだ。


花の都大東京に憧れていた達也少年は戸惑った。
「自分が大学合格なんてすっげーな。でも大阪じゃ意味がないんだよな。どうするべか?」
と悩んだが、人生の先輩である母親からこんなアドバイスをもらった。

「4年間かけてなりたいものを探せばいいじゃないの。そういう時間をもらえたと思って。良いチャンスだと思うよ」


これが決め手になり
「そうだよな、東京に行くのは4年後にしよう」と
(この時点では両親には東京行きのことは何一つ話していない)
自分を納得させて大学に通うことにした。



以上が大学入学の経緯。
結論から言えば「通って良かった」の一言に尽きるのだけど。




それにしても。
こうやって書いていると、他人に流されてる人生だと思う。
自分の意志があまりに存在してなくてビックリする。
ま、それでこそ岡田達也だ。






では、また。