残された方の気持ち | 姓名判断師 岡田健慈のひとりごと

姓名判断師 岡田健慈のひとりごと

姓名判断、改名を行っている岡田健慈の日々のひとり言を書いていきます


岡田健慈のひとりごと







愛する人が死んだときに、残された人もその時に人生は死んでしまう、


何度も何度も、悲しみから逃れる為に、どうすべきか考える。


でも、答えは出てこない、簡単なのは、後を追いかけること、


自分がこんなに悲しいのに、楽になったら


他の人をまたこんな苦しい地獄に引きずりこむのかと


思うから、何とか呼吸をしている。


数十分だけでも忘れて集中したいのに


思い出がすぐ現れ、亡くなった人の悲しみに引きずり込む


神にもっと素直にお参りしたりしたら戻ってくるのか


悪い者に、連れて行かれたのか、


いや、無理。


タイムマシーンで戻って、助けるか、


でも、運命ならどうしようもないか、


そんな事考えているのが一番気が


まぎれるかもしれない。



その後、その人の最期の気持ちを知りたいという気持ちから、


今際の瞬間を想像してしまう、何度繰り返せば考えなくなるんだろう


体の痛みや、死に赴く気持ちは如何ばかりだったろうと、同じ痛みを


思い、想像を繰り返し、また一段苦しい悲しみに包まれる。


代わりに自分が死ねばよかったのにと思いながら。

また、死の瞬間ばかりではなく、その人が生まれてからの


気持ちや感情も思い描こうとしてしまうものです。


その人が、どんな幼少期を過ごし、勉学にいそしみ、


運動会を楽しみ、楽しかった修学旅行に出かけ


自分の為におみやげを買い。


優しかった人だったことを思い出し。




岡田健慈のひとりごと






死を覚悟した時に、


どんな哀しい気持ちで死を迎えたのか。

自分だったらどうなっていたろう



その人の人生全体を、覚えている限りのありったけの



思い出でを再構成してまた思い出す。


知らない部分でさえ、推測で補って、思い描いてしまう。


それは、あたかもある人の人生をコツコツと彫り下げる小説家の作業の様です。


初めは、ただ悲しみと苦しみ、慟哭と絶望しか感じられないわけなのですが。

歳月を経て、その人の生と死は、私の中で、ひとつの像としてできています。

その人の在った姿、あるべき姿は、私の胸の中にあるのです。


それは、記憶ではなく、心の形として。


こんなに悲しみでも、何時かは、


涙は滅多に流れ落ちることは無くなるかも知れません。


悲しみは忘れたいと思いますが、亡くなった人を忘れたいという訳ではな


く、悲しさ苦しさから逃れたくなるのです。



その人の死だけではなく、その人の人生と過ごせた喜び


も、楽しかった思い出も今の悲しみには、勝てないものです。



これだけ悲しみ、恐ろしい程の、さみしさは、中々消えることがありません。


永遠に続くと思われる悲しみ孤独感は、いつ忘れることができるのでしょうか

枯れた花が、地面に落ち、新たな新芽として息吹くように、


それはごく当たり前のこととして何時かは、楽に成るのでしょうか、







岡田健慈のひとりごと




、ゆっくりと、ゆっくりとでも進んでいるのでしょうか

長い間、流した涙も、溢れる想いもすべて新しい息吹の栄養となっているので


しょうか。