天下泰平の江戸時代、しかし火事、地震、飢饉、疫病など危機の連続だった
 日本は今コロナ禍と景気悪化という危機に直面していますが、歴史を振り返ると日本はこれまで何度もさまざまな危機に直面してきました。しかし先人たちはその危機を必死に乗り越え、新しい時代を切り開いてきたという事実があります。

 このブログの前回にとりあげた上杉鷹山はその代表的な人物と言えます。江戸時代は鎖国の下で長らく「天下泰平」と言われた時代でしたが、そんな中にあっても火事、地震などの自然災害、飢饉、疫病の流行などが頻繁に起きていました。
 前回も書きましたように、飢饉になると体力が弱るため疫病の流行が重なりましたが、飢饉とは別にインフルエンザや天然痘などもたびたび流行しました。現在のように医学が発達していなかった時代ですから、疫病の蔓延は大変な危機だったのです。
 そして幕末に至って黒船来航という新たな危機に直面したのでしたが、その直後に大地震が続発し、さらに日本にやってきた外国人からコレラが持ち込まれ爆発的に感染が拡大しました。

 雑誌『歴史街道』(PHP研究所発行)の8月号では「未曽有の危機に立ち向かった日本人」という特集を組み、その中で私は、江戸時代に起きた明暦の大火、天明の大飢饉、黒船来航の3つについて当時の幕府首脳がどのように闘ったかを書きました。
 その全文を私の公式ウエブサイト「岡田晃の快刀乱麻」に転載しています。
  https://okada-akira.jp/history/vol36.html

保科正之、松平定信、阿部正弘――危機の時代にリーダーはどう動いたか
 この記事で取り上げたのは、保科正之、松平定信、阿部正弘の3人です。
 まず保科正之は会津藩の初代藩主で、もともと2代将軍徳川秀忠の隠し子、3代将軍・家光の異母弟にあたります。家光が亡くなった後、家光の長男・家綱が4代将軍となりましたが、まだ年少だったため、保科正之が将軍後見役として幕政の事実上の最高実力者となっていました。
 明暦の大火が起きたのはその頃のことです。この火事は江戸の市街地の約60%を焼き尽くし、死者は当時の江戸の人口の15%にあたる10万人以上に達したと言われる大惨事となりました。正之は被災者への救済策と江戸の復興に奔走しましたが、その対策の中身がいずれも幕政の常識を超えるものだったのです。
 そのことが幕府の政治を転換させ、その後の徳川長期政権を可能にしたと言っても過言ではありません。

 また松平定信は享保の改革で有名ですが、老中に就任する前のことです。奥州白河藩主に就任したばかりの頃に天明の大飢饉に直面しましたが、いち早く米の確保に動くなど迅速に対応したのをはじめ、領民の救済や食料増産を図りました。
 その結果、上杉鷹山率いる米沢藩と同様に、白河藩でも餓死者をゼロに抑えることに成功しました。東北地方のほとんどの各藩でそれぞれ数万~10万人規模の死者を出したことから見ると奇跡的です。定信はその功績が認められて老中に就任したのでした。

 一方、阿部正弘はちょうどペリーが来航した時、老中首座の地位にあった人です。一般的には、この時、幕府首脳は右往左往するばかりで無策だったというイメージが強いのですが、よく調べてみると、阿部正弘は当時の常識を超える対策を次々と打ち出して危機を乗り切ろうとしていたことがわかります。
 それらは後の日本の近代化の先駆けとなるような先進的な政策ばかりなのです。

 記事では、この3人がどのように危機に立ち向かったかについて具体的に書いています。
 これら先人たちの闘いぶりを知って、私たちが現在の危機を乗り超えるパワーを得られればと思います。