昨日(4月20日)、東京メトロポリタンテレビ(MX2)などで放送している「東京マーケットワイド」(制作・ストックボイス)に出演しました。
番組では、①米国などで経済活動再開の動きが出ていることに関連して100年前のスペイン風邪の教訓②コロナ危機への企業の対応――の二つのテーマを中心にお話ししました。

まず、①について。
経済活動再開については日本でも今日(21日)で緊急事態宣言が発令されてちょうど2週間がたち、5月6日までの期限の折り返し点を迎えたことから、5月6日以降に解除されるのかどうかが次の焦点になってきます。しかしスペイン風邪の教訓から言うなら、解除を焦ってはいけない、ということです。
スペイン風邪が世界中で流行した際、米国ではセントルイス市が1918年10月上旬にいち早く学校の休校、集会禁止、教会や娯楽施設の閉鎖などの対策を取り、対応が遅れたフィラデルフィア市に比べ死者数が8分の1で済んだことは、このブログで以前に書いたとおりです。
同じ時期に米国ではほとんどの都市で死者が急増しました。しかしその後にもう一つの問題がありました。流行は1カ月ほどでいったん収束しかけたかに見えたのですが、11月下旬頃から再び感染が拡大する第2波がやってきたのです。都市によってばらつきがありましたが、たとえばニューヨーク市では10月20日の週に死者数が1週間で5222人に達してピークをつけた後、11月24日の週には同424人まで減っていました。ところがその後に再び増え始め、翌年1月26日の週には同1212人まで増えたのです。10月のピークに比べれば少ないように見えますが、11月の水準の3倍近くに達しています。しかもその年の春ごろまで流行が続きました。(人数は、A・W・クロスビー/西村秀一訳『史上最悪のインフルエンザ――忘れられたパンデミック』より)
同じような傾向は当時の日本でも確認できます。日本でスペイン風邪の感染が拡大したのは1918年(大正7年)9月頃からで、翌1919年(大正8年)春まで第1波の流行が続き、患者数は合計で約2117万人、死者は25万7000人に及びました。この流行で、現在の東京駅や日本銀行本店旧舘を設計した建築家の辰野金吾、演出家・文芸家の島村抱月などが亡くなり、島村抱月の愛人だった女優の松井須磨子が後追い自殺を遂げるという悲劇も起きました。
話がやや横道にそれましたが、第1波は夏にはいったん収束しました。しかしその年の秋になると再び流行し、それは翌1920年(大正9年)春まで続きました。この第2波では患者数241万人、死者は12万8000人でした。患者数は第1波の9分の1と少なかったように見えますが、それでも相当な人数にのぼっていますし、何よりも衝撃的なのは第2波の致死率(患者100人に対する死者の割合)が5.29%と、第1波の1.22%から跳ね上がっていることです。特に月別に見ると1929年(大正9年)の3月と4月には10%を超える悲惨な状況になっていました。
その理由はよくわかっていないそうですが、第2波を甘く見るととんでもないことになると、私たちに警告しているように思えます。(日本の数字は、内務省衛生局編『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』(平凡社・東洋文庫)より)

続いて②について、
株価は3月19日の1万6552円を大底に、最近では1万9000円台で推移しています。しかし不安定な展開で、今後は感染の収束次第です。
その中で企業の動きに注目しています。これには(1)在宅勤務や支援などへの取り組み状況、(2)中国戦略の見直しとグローバル戦略の再構築-―の二つの視点があります。
これについては、後日追って詳しく書きます。

なお、番組については、下記のURLで視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=KiskCqITAhY