東京都内でコロナウイルスの感染者が急増の気配を見せています。小池東京都知事は「重大な局面にある」として、週末の「不要不急の外出自粛」の方針を打ち出しました。
小池知事が言うように、現在は「感染抑止ができるかどうかのぎりぎりのところ」です。今ここで感染爆発(オーバーシュート)を許してしまえば、イタリアや欧米各国で起きている医療崩壊や都市封鎖(ロックダウン)が現実のものになりかねません。そのような事態になるのを防ぐために都民に自覚をもって行動してほしいと強く呼びかけているわけで、都と隣接する4県知事も足並みをそろえました。

残念ながら中国や欧米各国は、ちょうど東京と日本が直面している現在の局面の段階で感染抑制に失敗したため、現在のような事態を招いてしまったと言わざるを得ません。これと同じ現象が、1918年のスペイン・インフルエンザ(通称・スペイン風邪)の流行の際にも起きていたことは、すでに見た通りです(本ブログ・3月18日付け「コロナウイルス危機を乗り切るために(2)――パンデミック封じ込めに成功したセントルイス方式」)。

繰り返しになりますが、もう一度簡単に紹介します。セントルイスでは1918年10月5日に最初の感染者が報告されましたが、すでに米国東部を中心に感染増加が広がり始めていたことを敏感に受け止めた市長はその2日後に学校の休校、劇場や娯楽施設など公共施設閉鎖に踏み切りました。その結果、同市の死者数は増加したものの緩いカーブにとどまりました。
これに対し東部の都市、フィラデルフィアではすでに9月17日に死者の感染者が報告されていましたが、9月末から今で言うオーバーシュートが起き、一気に死者数も急増しました。10月16日には一日で711人もの人が亡くなったのでした。そのため深刻な医療崩壊が起き、それがまた感染拡大と死者の増加を招くという状態となりました。

フィラデルフィアとセントルイスの人口10万人当たりの死者数(週間)の推移を示したグラフをもう一度掲載します。

 (出典:『米国科学アカデミー紀要』掲載の研究論文)

このグラフの10月初め頃が、ちょうど現在の東京あるいは日本に当たると見ることができるでしょう。今後、セントルイスのようにピークを抑えることができるのか、それとも最悪の場合フィラデルフィアの道をたどってしまうのか、まさに今その分かれ道に立っていると言えます。
したがって、今が正念場なのです。

ところがテレビなどの報道を見ていると、かたや「大げさすぎる」「パーティに行ってきます。自粛なのでいいかなと思って」など、相変わらず危機感の薄い人たちのインタビューを流す一方で、コメンテーターが「小池知事は対応が遅かった」と批判するといった状態です。
それぞれそうした声があるのは事実ですが、問題なのは、テレビ番組の中にはそうした街の声をただ拾って流しているばかりで、視聴者が今の局面について理解を深められるように「不要不急の外出自粛」の意味をきちんと伝えていないものが少なくないことです。
たまたまあるニュース番組で、埼玉県に住んでいて病気で都内の病院に通っている人にマイクを向け「外出自粛要請によって通院できるか不安」という声を紹介したあと、小池知事へのインタビューで「このケースは不要不急に当たるのか」と聞いていました。
小池知事は「それは『不要』ではなく『要』ですから」と明確に答えていました。インタビューを受けていた方ご本人が不安に感じておられることは察せられますが、小池知事が言うように、それは明らかに不要不急ではありません。もし番組が「不要不急の線引き」を求めていたなら、このケースを例にとることは適切でないことは言うまでもないことでしょう。結局、これを見ていて、番組があらかじめストーリーを作って、知事へのインタビューもそれに合わせた質問をしているなあという印象を受けました。つまり「ストーリーありき」であり、「批判ありき」なのです。

これも以前に書きましたが、メディアの多くは今回のコロナウイルスの問題で政府批判を続けてきました。その中には「批判のための批判」と思えるようなものや、第三者的で無責任な‟批評”が少なからずあったことは残念でなりません。たしかに政府や行政の対応では、個別には不十分な点や説明不足もありました。しかし現時点で世界を見渡せば、全体として大筋で適切だったことは間違いありません。
そして今回の問題で何より重要なのは、メディアは「みんなが力を合わせて感染拡大を防ぐ」ということが基本的な報道姿勢であるべきで、そのために必要な、かつ適切で前向きな情報を伝えることが重要な社会的使命だということです。
メディア出身の身として前述のようなメディアの現状を憂うとともに、私自身、皆さんが少しでも前向きな気持ちになれるように情報発信に努め、一緒に危機を乗り越えていきたいと思っています。