西郷隆盛は当時の藩主・島津斉彬に見出されて側近に取り立てられたことが、その後の活躍のきっかけとなりました。下級武士の家に生まれた西郷は本来なら、お殿様の側近になれるような身分ではありませんでしたが、斉彬の目にとまり、登用されたのでした。
 斉彬は当時、最も開明的な大名と言われた人で、西郷や大久保利通など、身分にかかわりなく有能な藩士を登用して活躍させました。
 斉彬はまた海外列強のアジア進出に危機感を持ち、薩摩藩独自の軍備増強や殖産興業政策をとりました。藩の近代化を進めて欧米列強に対抗しようと考えたわけです。
 藩主の居城であった鹿児島城は別名、鶴丸城と呼ばれますが、そのお城から現在の車で20分ほどの海辺に藩主の別邸、仙巌園がありました。斉彬はそこに西洋技術を導入した近代的設備を建設しました(詳しくは次号)
 こうした斉彬の考え方に西郷も深く影響を受けるようになります。斉彬が育てた人材は、西郷や大久保のほか、NHK朝の連続ドラマで話題になった五代友厚、明治になって「電気通信の父」と呼ばれ外務卿(のちの外務大臣に相当)にもなった寺島宗則など、数多くいます。斉彬自身は1858年に休止したため、明治維新をその目で見ることはできませんでしたが、斉彬が明治維新の準備を整えたと言えます。


鶴丸城の正門にあたる御楼門の復元再建が計画されている


鶴丸城のきれいな石垣が残る。季節になると堀は蓮の葉と花で敷き詰められたようになる


藩主の別邸だった仙巌園。正面に桜島の雄大な姿が見える。ここが斉彬の近代化事業の拠点となった


仙巌園内には、御殿が当時のままで残されている。斉彬の次の藩主となった忠義は明治になるとこの御殿を住まいとした



御殿は座敷に上がって内部を見学できる


島津斉彬の死後、照国神社が創建され、斉彬はここに祀られている。


照国神社には斉彬の像が建っている

なお、西郷隆盛が斉彬に見出された翌年の1855年、西郷家は加治屋町の家(隆盛の生家)を売却し、甲突川の対岸の上之園町に引っ越している。隆盛はこの家に1869年(明治2年)まで住んでいた。彼が最も華々しく活躍した時とつらい時を送った両方の時期にあたる。今はその跡を示す碑が建っている