先日、大阪の造幣局の「桜の通り抜け」に行ってきました。毎年恒例の「桜の通り抜け」は大阪の風物詩となっており、多くの人が訪れます。今年は4月11日から17日までの7日間でした。




 造幣局敷地内の旧淀川沿いの約560メートルにわたる長い通路に沿って、134種、349本の桜が咲き並ぶ光景は他では見られないものです。今年はソメイヨシノの開花と満開が早かったですが、造幣局の桜は遅咲きの八重桜や珍しい品種の桜などが多く、花見シーズンが終わった時期にもう一度、桜を楽しめるのが魅力です。
 造幣局の発表によると、今年の期間中の入場者は約50万人に上ったそうです。今回、数年ぶりに行ってみたのですが、大変な人出でした。特に目立ったのが、外国人の姿でした。わが国を訪れる外国人が年々増加していることは皆さんもよくご存じのことですが、桜の美しさは外国人にとっても心ひかれるものがあるようで、「特に美しい」と感じる桜の木の前では、必ずと言っていいほど、外国人のグループが記念写真の撮影や自撮りで楽しんでいました。


 ところで、この造幣局の桜の通り抜けが始まったのは明治16年(1883年)で、当時の造幣局長だった遠藤謹助という人が「造幣局員だけが桜を楽しむのはもったいない。大阪市民に広く開放しよう」と指示して始まったものでした。それ以来、太平洋戦争時の中断はありましたが、135年の歴史を持っています。
 実は、この遠藤謹助と造幣局の歴史には、明治日本の近代化の歴史が詰まっています。遠藤謹助は元長州藩士で、幕末の1863年(文久3年)に長州藩が英国に派遣した5人の留学生の1人として参加し、約3年間、英国で西洋の学問や技術を学んだ人です。帰国後には、長州藩主が英国提督と会見した際の通訳を務めるなどして倒幕運動に貢献し、維新後に造幣局につとめて造幣局長となっていました。「造幣の父」とも呼ばれています。
 英国に渡った5人は「長州ファイブ」と呼ばれ、いずれも帰国後に明治の近代化に大きな役割を果たしています。後に初代総理大臣となった伊藤博文、同じく外務大臣となった井上馨、東大工学部の前身を設立し「工学の父」と呼ばれた山尾庸三、新橋―横浜からスタートし全国に鉄道網を建設し「鉄道の父」と呼ばれた井上勝です。
 長州藩は幕末期、「攘夷」を叫んで下関海峡を通過した外国船に砲撃する事件を起こしていましたが、その一方で5人を密かに英国に留学させていたのです。当時はまだ幕府が一般人の海外渡航を禁止していましたので、それは「密航」だったのです。国禁を犯してまで5人が英国に渡航したところに、5人のチャレンジ精神と志の高さが表れています。その行動が倒幕と明治の近代化を果たす原動力となったと言っていいでしょう。
 造幣局は遠藤謹助だけでなく長州ファイブの各メンバーとも深い関わりがあります。造幣局は明治元年(1868年)に大阪の現在地で建設が始まり、明治4年(1871年)に操業を開始しましたが、その初期の時代に井上馨、井上勝、伊藤博文が交代でトップ(当時の役職名は造幣頭)を務めました。その後、遠藤が第10代のトップ(造幣局長)となりました。造幣局は貨幣の統一と貨幣制度の確立という、近代国家にふさわしい体制を作るうえで重要な機関でしたが、彼らはその中心的な役割を担っていたのです。
 また大阪に造幣局を作るにあたっては、NHK朝ドラで話題になった五代様こと、元薩摩藩士・五代友厚が大きな役割を果たしていました。造幣局を大阪に設置することを提唱するとともに、英国人商人トーマス・グラバーを通じて香港から貨幣製造機械を購入しています。五代もまた、幕末に英国に渡っていました。薩摩藩が密かに英国に派遣した留学生19人のリーダーとなり、現地では大小3000の銃を購入して倒幕に貢献するとともに、紡績機械を大量に購入して鹿児島に送り明治期の近代工業化の礎を作りました。先に英国に来ていた長州ファイブのうち遠藤など3人とも交流しています(伊藤博文と井上馨は一足先に帰国していました)。
 その五代と長州ファイブが造幣局の創業初期に深く関わったという巡り合わせは、なかなか興味深いものがあります。
 現在の造幣局には、そうした歴史を示す造幣博物館があり、五代が香港から輸入して創業当時に稼働していた機械が展示されています。これらは桜の通り抜け期間中は閉鎖されていますが、当時に建設された正門は通り抜けの道沿いの一角に現存しています。
 

 今年は「明治150年」の節目の年に当たり、造幣局では「明治150年記念特別展」を今年末まで開催中です。これをきっかけに、近代化に力を尽くした先人たちのパワー、さらに明治日本の歴史の一端を多くの人に知ってもらいたいと思います。