ミャンマーのスーチーは何と言いましょうか。英国病を発症してるんじゃないだろうか⁉️
宮崎正広メルマ
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成31年(2019年)2月23日(土曜日)
通巻第6000号 <六千号記念号>
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「『借金の罠』に引っかかるな」とミャンマー議会に懐疑論が拡がる
スーチーは中国「一帯一路」に前向き、与党内部は慎重論が多数
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中国主導のBRI(一帯一路)プロジェクトの一環としてミャンマー西部のチャウッピューから雲南省昆明へ、1400キロの幹線を拓き、そこに高速鉄道を敷設するという壮大な計画は、ネピドー(首都)の国会で「見直し」が議論され、宙に浮いたかたちとなっていた。
すでにチャウッピューを輸出加工区、免税特区とする計画は実行に移されているが、大看板と事務所ビルがあるだけで、工事が始まっている気配はない。
とはいえ、ガスと石油のパイプラインはすでに稼働しており、中国への輸送は始まっている。チャウッピューから北北東へ、マンダレーを超え、カチン族、シャン族の盤踞する山岳地帯をぬけて雲南省へ入るコースである。鉄道は、このパイプラインのルートに沿って計画され、工事は中国側では2011年から開始されている。
ミャンマー議会の論点は、「中国のいう20億ドルは初動の段階の予算に過ぎず、鉄道となると全体で幾らかかるのか。それを返済する条件、償還期間、金利などが不明瞭であり、スリランカが結局『借金の罠』に陥落して、ハンバントタ港の99年の租借を認めたように、中国の世界戦略に利用されるのがオチではないのか」というものだ。
習近平は4月にも北京で関係国60ヶ国の首脳を集め、二回目の「BRIフォーラム」を開催するとしており、現時点で発表されている「CMEC(中国ミャンマー経済回廊)」の高速鉄道は四期にわけて実施されるとしている。具体的な詰めの協議は、そのとき北京でおこなわれる予定だ。
第一期は中国国内の昆明から大理までの328キロ。
第二期は雲南省大理から国境のルイリまでの336キロ。
この区間はすでに2011年から、中国の新幹線プロジェクトとして工事が始まっている。工事は2017年完成予定だったが、遅延が続き、2022年完成とされる。というのも、峻嶮な山岳地帯であり、おおよそ中国共産党の統治が及ばない辺疆でもあり、大東亜戦争中は蒋援ルートを絶つために大量の日本軍が派遣され、とりわけの激戦地だった場所なのである。
下記樋泉教授の紀行文にもあるが、「拉孟・龍陵・騰越」あたり、とくに拉孟は、激戦地として歴史に残り、桜林美佐さんが、この土地を日本部と日本人女性との悲恋物語を講演で語るときは涙を誘う。
一帯は山また山であり、四輪駆動がなければ踏破は無理、しかも霧が深く雨が多く、いったい何のためにこういう難所に中国は鉄道を通すのか、現に筆者も数年前に訪れて、不思議に思ったのである、ただしすでに当時石油ガスのパイプラインの敷設工事は、中国側で作業が進んでいた。バルブ置き場の撮影もしてきたことを思い出した。
▼ミャンマー側の工事は未だ着工にも至らず
第三期工事はミャンマー側である。
第二の都市というより、華僑の街として知られるマンダレーからルイリへいたる433キロは、工事どころか地域の測量作業が行われている段階だ。同地域もまた少数民族の支配する山岳、不気味な武装集団が盤踞している。
ミャンマー軍は掃討作戦を継続しているが、少数の武装勢力に武器をひそかに供与しているのが中国。一帯は麻薬地帯でもあり、この無法地帯において高速鉄道を敷設する工事なぞ、実現性そのものが危ぶまれている。
第四区間がマンダレーからチャウピューへの400キロ。
ミャンマーの地形を地図で確認してみると、判然とするのは南北に縦貫する山岳地帯をくぐることになり、トンネルを掘るばかりか、絶壁に橋をかけるなどの難工事になるだろう。ミャンマーの幹線道路というのはヤンゴンとその周辺、そして首都ネピドー、第二の都市マンダレーまでしかない。
ミャンマー議会は、「歳入の予測も立たず、ミャンマー側で工事が始まるのはまったく不透明だ」としている(『アジアタイムズ』、2019年2月21日)。
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1862回】
――「長い、長い一日が仲々終わらない」
平田敏夫『初年兵平田敏夫十九才の雲南ビルマ戦記』(宝梱包 2018年)
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昭和19年2月10日、深い雪の朝だった。19歳の平田敏夫は、歓呼の声に送られて敦賀の部隊に入隊する。「この雄叫びが後の戦場で何度も自分を奮い立たせた。郷土愛、郷土の声援。敵兵と対してカッー頭に血が登った時、行軍でぶっ倒れそうになった時、背後で歓呼の渦がほむらして立ち、なんの、なんのと奮い立ったものです」。
戦況は急を告げる。初年兵教育は中断され、平田は「安兵団」の一員としてビルマへ。シンガポールに上陸するや、後続部隊を待たずにビルマ東北部経由で「急遽、雲南へ」。
投入されたのは、重慶の蒋介石政権支援のために建設されたビルマ東北部から龍陵・騰越・拉孟を貫き昆明を経て重慶に続く援?ルートを遮断する作戦だった。
最前線の拉孟は「陸のガダルカナル」と形容されるほどの死戦だった。戦友の死体を前にたじろぐ平田に向かって、上官は「遺骨は歯と骨を切り取るんや」と叱咤する。歯と指の骨は飯盒に納めた。
昭和19年6月下旬を境にして「僥倖は逃げた」。平田にとって以後の戦いは、ひたすら食料調達と飯盒炊爨と敵の猛攻を避けることだった。
山また山がどこまでもウネウネと続く雲南の大地を、ビルマ中部のマンダレーを目指して壊走する。その間も360度に眺望の広がる山々を前に「山登りの癖で私は眺望に酔いしれる」。とはいえシャン高原の山々は「越えても越えても限度がない」。
昭和20年8月22日、捕虜となってラングーン(現ヤンゴン)郊外のアーロン収容所に収容されたところで、平田にとっての大東亜戦争は幕を閉じた。
「兵隊は筋道たてて戦場を語ることができない。酷かった、酷かった」で終わってしまうと振り返る平田だが、「我が身に危険が迫ると逸早く民間人を残してラングンを飛び立つ。そんな人物が敗戦の最中、中将から大将に昇進して金ピカの襟章を誇示する」
「女、子供を地獄に残して、モールメンの広い芝生のある白亜の建物、物資は豊富、豪奢な生活にひたる。戦争責任を問う。戦犯裁判とは連合軍がかけるものではなく、日本人が日本人にかけるべきものだろう」と、あの戦争における指揮系統上層のデタラメさに憤怒を隠さない。
昭和22年7月7日、平田を乗せた復員船は宇品港に投錨する。
「内地の山々は、緑いっぱいで美しい。万感胸に迫る、帰ってきたのだ」。やがて故郷へ。平田は「村では仰山の人が戦死している。三人出征して三人共戦死した家もある。うちは三人共帰って来た。お前一人位は戦死して来てくれん事には、村の者に顔向けならん」と父に迎えられた。
その言葉を聞いた平田も辛かったろう。だが、そう言わざるを得ない父親の心中は察するに余りあるなどという通俗的表現では推し量ることはできほどに苦しかったに違いない。
やがて平田は故郷を離れ京都へ向かう。ここから平田にとっての新しい戦争が始まった。「祖父が営んでいた木箱製造工場を引き継ぎ、現宝梱包株式会社の基礎を築き、77歳まで代表取締役を務めあげました」と、ご子息は綴る。
平田の後半生は、また戦友慰霊の旅でもあった。ある時、かつての中隊長から「中隊集合の葉書が来た」。「(生還した)全員が集合。福知山の旅館で抱き合った。話した、話した、話しまくって夜明けまで、朝食を食って、又昼まで、来年は敦賀でやろうなとなって別れた。その後、毎年やって、三十二回。今では私一人が生存者です」。
寂寞しくも雄々しい。
その平田も2017年9月15日、多くの亡き戦友の許に旅立つ。94歳だった。職を辞してからの日課として書き溜めた戦争の記録が、ご遺族の手でまとめられ本書となった。
2012年春、平田さんと一緒に拉孟・龍陵・騰越を回った。
こんな所まで兵士を送り込んだ戦争とはなんだったのか――考え続けることが責務だと、改めて痛感・・・合掌。
《QED》
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読者の声 ☆どくしゃのこえ ★READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1)貴誌前号「縄文」をめぐる當田晋也様の寄稿、ご教示有難うございます。参考にさせていただきたいと思います。
古代史のことにつきましては、いろいろな説があり広げ過ぎてしまいますと、自分の手に負えなくなり、また収拾がつかなく恐れがありますので自分でも理解できる範囲で投稿させていただきました。
ところで、當田様より「1万9千年以上前の縄文土器」とのご教示をいただきましたが、諸説の中の一つとして、日本人のルーツが今から二万年前に、陸続きであったサハリン経由で北海道に渡ってきたと言われています。シベリアのバイカル湖周辺で暮らしている「ブリヤート人」は、我々日本人に顔が非常に似ており、ただ似ているだけでなく遺伝子も共通しているようです。
また北海道の上士幌町の嶋木遺跡(約2万年)から発見された石器(黒曜石)と同じものが、シベリア、サハリンから見つかっておりますが、成分分析の結果、この黒曜石は北海道の白滝産のものであることが分かりました。これは当時から人々が行き来していたことの証になるものと思われます。
黒曜石の関東の産地としては、和田峠、箱根の名前がよく出てきますが、ここの黒曜石があちらこちらで見つかっておりますが、それだけ現代人の我々が想像している以上に縄文人と言われる人々はダイナミックに交易、交流し豊かな文化をもっていたのかも知れません。
(鈴木秀寿)
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(読者の声2)三島由紀夫研究会、二月の公開講座はヴルピッタ・ロマノ先生が講演を行われます。内容以下の通りです。
記
日時 平成31年2月25日(月)18時半より(18時開場)
会場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)
JR/地下鉄市ヶ谷下車2分
講師 ヴルピッタ・ロマノ氏(作家、京都産業大名誉教授)
演題 三島由紀夫に思いを寄せて〜現状を考える
講師略歴 昭和14年(1939年)ローマ市生れ。1961年ローマ大法学専攻卒。 東大留学を経てイタリア外務省入省、EU駐日代表部次席代表など歴任。京都産業大名誉教授。主な著書に「不敗の条件〜保田與重郎と世界の思潮」「ムッソリーニ〜イタリア人の物語」(何れも中央公論社)などがある。
会費 会員・学生1千円(一般2千円)
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縄文人の足跡は南米にも到達しているのです。マヤの王族は縄文人鴨知れないのです。カリフォルニアにも遺物が残っているとか・・。
縄文人のグレートジャーニーは何処までだったのでしょうか?一説にはグリーランドにもなんて話も‼️