宮崎正弘の国際ニュース・早読み  <ベネズエラ暴動、中国は鉄道建設を放棄へ (2017年08月1 | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


    支那竹土人は正にイナゴですな。良く「蝗害」として忌み嫌われる存在として名高い「蝗(いなご)」。突然大発生して、野や山を食べつくす。後に残るのは人間の阿鼻叫喚だけ。

    正に支那竹土人たちは世界中に「蝗害」を齎すだけ、そんな事を想起させるのは?僕だけでは無いとおもいたい。

    ベネズエラ、アフリカ大陸、そして中東からアジアへと。「不幸の種」を撒き散らしている現実。パキスタンもセイロン島も債務不履行つまり支那経済の植民地となるや否や、アッという間にデフォルトに陥る。不思議な現象?!!


宮崎正弘メルマ
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)8月16日(水曜日)
        通巻第5394号  
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気がつけば40万人のチャイナタウンが出来ていた
  ベネズエラ暴動で、数万人が既に逃亡、中国は鉄道建設を放棄へ
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 ベネズエラの政情不安、超猛烈インフレ率が1600%、ブラジルなどへ海外移民、暴動の凶悪化。マオイスト国家=ベネズエラは末期的症状だ。

 日本のメディアはあまり採り上げないが、米国のメディアをみていると、ベネズエラ問題はキューバ問題同様に、強い関心があって、率直に言えば米国の地政学からすれば、北朝鮮より身近な危機です。

それもこれも原油代金暴落がもたらした悲劇だが、チャベス前大統領以来のポピュリズム政策の惨めな破綻、同時に強気強気とベネズエラ石油鉱区に果敢に投資し、鉄道建設もしていた中国の思惑が、ばっさりと外れた。

 気がつけば、ベネズエラの首都カラカスには40万人もの中国人コミュニティが出来上がっていた。
二十世紀初頭からの移民で、現地人と混血し地付きの人間となった中国人ファミリーも多い。そのうえに新移民が重なった。

 なにしろ中国開発銀行(CDB)一行だけでベネズエラに370億ドルを貸与した(ほかの中国の銀行を含めると、推計で450億ドル)。ベネズエラの債務は650億ドル。最大の債権者は中国、デフォルトをやらかすと最大の金融災禍が中国の金融界を襲うだろう。しかもデフォルトは時間の問題だ。

 経済沸騰の頃、ベネズエラ全土で不動産開発、ビルラッシュが続き、建機、健材、セメント、トラックなどを中国が輸出し、しかもカラカスの輸入業者は中国人ときている。

これらの華僑は集中的に広東省の珠海デルタに位置する開平、江門などからやって来た同郷人で、カラカスだけで五万人もいた。開平、江門は苦力時代から労働者輸出の本場として知られる。2016年にあらかたの華僑は広東へ逃げ帰った。

 中国が自慢の「新幹線」プロジェクトもベネズエラでも進んでいた。総額75億ドル、総延長462キロの鉄道建設だったが、2016年に放棄された。
 
ベネズエラの通貨は2007年に100ドル=4600ボリバスだった。いまは100ドルが800000、闇市では1200000だ。珈琲が一杯200000ボリバス。誰もが喫茶の愉しみを失った。

原油高騰時代、高価なワインショップを開店した華僑もいた。ウハウハ笑いの止まらなかった時代は終わった。治安は悪化し、暴徒は商店を襲い、品物をあらいざらい奪い、火をつけ、中国人とみたら殴りかかる暴徒もいる。カラカスから80キロ離れたマラケイ市ではことし六月に68の華僑の店が襲われた。


 ▲負の連鎖

 ベネズエラ政府は暴徒鎮圧のために、放水、催涙ガス装備の装甲車を中国から緊急に輸入したが、すでに暴動で40人以上が死んだあとだった。マドゥロ大統領は、強権発動に踏み切り、住民投票で強引に改憲に突き進み、思案維持のために独裁政治を敷いた。この非民主的な遣り方に米国は経済制裁強化で応じた。

 連鎖は広がっている。すでにニカラグア運河は中国企業が着工し、突然、資金繰りが悪くなって工事は中断されている。

 リビアでカダフィ政権が潰えたとき、中国人労働者36000名が逃げ帰った。100近い中国主導のプロジェクトは砂漠で置き去りにされ、後始末の交渉さえ始められていない。リビアは依然として無政府状態だ。

 同様にベネズエラの二の舞をやらかすのはアルジェリアとアンゴラであると予測される。いずれも中国企業が食い入っている。とくにアンゴラには五万人の中国人移民のチャイナタウンがある。
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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 この話は本当か。大ヒット曲が誕生した舞台裏の涙の物語り
  「ドレミの歌」誕生の切っ掛けが、かの三島由紀夫だったとは

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門田隆将『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(小学館)
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 およそ歌と言えば、演歌と軍歌と小学校唱歌しか知らない評者にとって、少年時代にラジオで聞いた「南国土佐をあとにして」は衝撃的だった。それまでジャズ歌手としてバター臭い、「ペギー」などという芸名から、縁の遠い歌手でしかなかった。
 ラジオ全盛の時代、流れてくる歌の多くが情緒的で浪花節敵でもあり、豊かな情操を伴った。歌姫は美空ひばり、島倉千代子、そして男の歌手は三橋三智也、春日八郎。。。。。。

 ペギー葉山の歌った「南国土佐をあとにして」は日本人の感性と情緒を揺さぶり、涙腺を刺激してあまりあった。
 昭和三十四年、空前の大ヒットとなり、日活で映画になって小林旭が主演だった。ペギー葉山はクラブで歌う場面で出演していた。中学生の頃、この映画を見た記憶が蘇った。
 あらゆる成功譚には、因縁、えにし、人脈、そして運命があり、それが輻輳してある時、合体を産むと、奇跡が起こる。
 まさに「南国土佐をあとにして」は奇跡の運命から誕生した。前編はその舞台裏の物語である。門田氏は、この物語を感動的に書き上げた。
 戦争中、歩兵第236連隊という勇猛果敢、別名「鯨部隊」と呼ばれた兵団があった。土佐出身者の部隊である。鯨は古き昔から高知の漁民が捕った。いまでこそ鰹の一本釣りだが、土佐料理につきもの。
 はりまや橋は、地名こそ有名だが、小さな橋である。行ってみて驚くほど小振りで、拍子抜けがする。そこで坊主がかんざしを買うというのは替え歌。もともとはこの鯨部隊の兵士が戦地で作詞作曲し、大いに歌われ、流布していた。戦後も兵隊の引き上げによって歌い継がれたが作者不明という状態がつづいた。ちょうど吉田正の「異国の丘」と同様である。吉田はシベリア抑留から引き上げて、自分の歌が大流行していることに驚いた。
 ジャズ歌手の道を歩んでいたペギーに白羽の矢を立てたのは音楽の才能があるNHKのプロジューサだった。「男の歌を女の歌に変えていた」のだ。女性のアルトが良い、として誰がよいかを捜すとペギーしかいなかった。
「アトラクションで良いから」としぶとく口説き、ようやく了解したペギーも、いざ高知の生番組の会場へ行くと、本番の台本を渡され、驚くしかなかった。
 練習を積んでいたので、おちついて歌い出すと場内はしーんとしている。
「あ、やはり失敗だ」と歌いながら思ったそうである。
ところが、最後まで歌うとどよめきに似た大喝采の嵐となった。
 「異様に熱い何かが、まるで波が打ち寄せてくるように何度も何度も私に迫って来ました」とペキーは語った。

 「この歌の歴史は、ある名もない一兵士が、あの過酷な戦場でつくったところから始まります。そして、郷土出身、鯨部隊の兵士たちが曠野で歌い継ぎ、戦後、武政英策先生が補作編曲し、昭和三十四年、われらがペギー葉山さんが大ヒットを飛ばし、全国的に有名になった」と「南国土佐の歌碑を建てる会」の臼井会長に語らせる。

次の大ヒットは国民的歌謡となった「ドレミの歌」だった。
 翌年、ペギーは米国の公演を引き受けロスアンジェルスへ単身で飛んだ。
 直前に、「運命を変えるともいうべき邂逅があった。三十五歳の作家、三島由紀夫との対談である。ペギーはこのとき、まだ二十六歳。深川の料亭で催されたその対談は、思いも寄らぬ方向へ向かった」(306p)
 三島はニューヨークへも足を延ばせと強く進めるので理由を問うと、「そりゃ、ミュージカルが花盛りだからさ」。
 ウエストサイド、マイフェアレディ、サウンドオブミュージック。。。。。。
 「絶対見てこいよ、って。私は『ええーっ』て言ったんですよ。とにかくぎょろぎょろしたあの眼で、三島さんがいろんなことを次々と」
 ペギーは決断しロスからニューヨークへは重い荷物に着物姿の一人旅。ロスからのチケットも自分で手配した。まるっきりひとり。
 見た。サウンドオブミュージックを。そして感動したペギーはロビーでスコア(譜面)とLPレコードを買い求めた。
 「これを日本語で歌ったら素晴らしいって思った」
 生前にインタビューした門田氏にペギー本人が回想するのだった。

ペギーはドレミの歌の日本語訳を自分で、自分の感性でなした。翻訳をおえるとニューヨークは朝になっていた。
「『南国土佐をあとにして』を歌いに来て欲しい」と。そんなロサンゼルスの日系人の要請から始まったペギー葉山のアメリカン・ジャーニーは、これまた日本の歌謡史に特筆される大ヒットを残すことになる」(318p)。
 ペギー葉山と三島由紀夫、これもまた奇跡の出会いだったわけだ。
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 ▼読者の声 ▼どくしゃのこえ ■READERS‘ OPINIONS ●読者之声
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(読者の声1)貴誌前号「三内丸山遺跡で縄文の文明と文化を考えた」には嬉しくなりました。
  私は過去2回、通算3年間の三沢勤務時代に、単身赴任の利点を生かして休日には県内を走り回り、津軽半島から下北半島はもとより、十三湖、亀ヶ岡遺跡群、キリストとゆかりのある戸来村、ストーンサークルなどを見て回りましたが、史跡と史料を見る限り、「縄文人こそ大和民族の先祖ではないのか?」と思ったことがあります。
 何よりも東北の歴史はミステリアス、と言うよりも現代日本史から「隠ぺい・改ざん」されているような感じがしたものです。
退官後20年間、国民の防衛意識向上のために微力を尽くした積りでしたが、現在のミサイル事案を見てもわかる通り、その成果はほとんど上がっていません。
今や現世よりも古代日本と宇宙に関心を持ち、「縄文の人々は何を神に祈ったのだろう?」と私も考えましたが、今では「軍事評論」よりも宇宙の成り立ちと地球との関係、その後の人類とのかかわり方の方に興味が出てきました。
更に今日の先生の「縄文人の生活ぶりと、AI技術の発展」に関する部分に同感です。
そして今や、地球人の宇宙進出(破壊)を怖れています。AI技術の発展は、何かとてつもない出来事を起こす前触れのような気がするのです。
  先生の世界ニュース早読みはもちろん大切ですが、折あらば今回のような、何かホッとするエッセイを期待しています。
(佐藤守)


(宮崎正弘のコメント)明治維新以来の西洋崇拝は戦後の米欧への憧憬、そして世界史が完全に「西側史観」に染まり、それもキリスト教史観に置き換わってしまったように、明治維新以来、東北軽視の日本史観が形成されたのではと思っています。
明らかに縄文は東北から北海道南部に集中しており、西日本は弥生文化ですし、田中英道氏がいうように高天原は関東ではないかと思えますね。
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    読者の声に佐藤守氏が出てきたよ。

    田中英道先生の名前も。「高天原は関東だった」の傍証?と言うべきものは奈良の春日大社。藤原氏の氏神様は遥々関東から遣って来た、白鹿に乗ってとの伝承。そして現存する鹿の大群。縄文は大和民族の先祖なのは遺伝子研究で明らかになりつつある。


    ネイティブインディアンが米大陸の原住民かと思っていたら大間違いだった。その前に我らが先祖の縄文人が千島・カムチャッカ経由で米大陸を南下したというユーチューブの記事を発見した。

    新石器が文明の先駆けの様に言われているらしい。米大陸にも日本列島で出土する磨製石器が現れていた。日本は大陸とは別種の文明を築いたのだ。それを確信する記事だった。リポーターが酒蔵出身の佐々木蔵之介。何か嵌ってしまったよ。(^^ゞ(^^ゞ


    日本は一大文明国家なのです。列島で生み出される物全てに人類は魅了されるのです。誇りを!!!