小学生に英語を教えてはいけない5つの理由 大学入試からも英語を外した方がいい | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


 帰国子女が話題になったのは、もう何年前だろうか?

 五体不満足どころか「日本語不満足」の彼らはどう日本の中で役立っているのだろうか? 誰か一人くらい、芸能やスボーツ以外で名を成しても良いんじゃないかと思うんだが、寡聞にして知らないんだよなぁ。

 金の為にあくせく生徒集めしている君たち、誰かどんな事をしているのか知ってたら教えてくれるかな?


JBプレス
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48387
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 この国では、教育行政に関わる人々は、不明確な「日本語」しか使えなくて、意思疎通のできない日本人を育てるつもりだろうか。

 英語を教える小学校で日本語がますます使えなくなる子供を作るような制度の中に、自分の子供を送りたいだろうか。

 英語を早く教え始めれば、みんな英語ができるようになると本気で信じているのだろうか。

 「国際理解」と「英語を習うこと」とは基本的に何の関係もない。「外国語活動」という名の下に、「英語」だけの教育を中途半端に行い、結局は、わけの分からないカタカナ言葉を氾濫させて、かえって日本語の混乱と意思疎通の阻害になってしまうことを認識すべきだ。

早く教え始めた方が身につく、保証はない
 小学生に英語を教えてはいけない理由の第1は、小学校から英語を教え始めた方が英語がより身につくか、その保証が全くない点だ。

 中学校から英語を教え始めた場合と比べて、小学校で教え始めた方が、実際に役立つ国際的な英語を使えるようになる人口の割合が高くなるという実証があったら見せてほしい。

 これまで、この国では中学校、高等学校、そして大学のほぼ4年間を合計すると大抵の場合10年間英語が教えられてきていながら、国際的な舞台で実際に使い物になる英語を身につけた人はそれほど多くないと言われてきた。

 そのせいか、もっと早く小学校から教え始めた方が身につくだろうと考えられているようだ。なぜなら、英語圏の諸国では生まれた時から(究極的に早い段階で)教えられ、そして使えるようになっているではないか、という。こんな乱暴な議論はない。

 中学校、高校と大学の4年間、合計で10年間にわたって英語が教えられてきたのに、実際に役立つ国際的な英語を使える人が少なかった理由ははっきりしている。私は次の3点を挙げたい。

 高校では大学への受験英語が教えられ、大学入試という仕組みの存在がその第1の理由であり、第2は大学でまともな英語教育がなされてこなかったためである。

 第3は、総じて日本の文化は周りから目立ち他人とは違ったことをしたり言ったりすることを抑える傾向にあるためだ。国際会議などでは英語が喋れてもできるだけ話さないことの方が美徳であると考えてしまう。

 結局、国際的な舞台などで自分の意見を述べ、様々な観点から論を戦わすことのできる人を育てていない。

 英語を早く教え始めると、使える英語、喋れる英語、聞ける英語、生きた英語を使える人が増えるという考えは、幻想にしか過ぎない。使える英語が習えるかどうかは、習い始める年齢とは関係ない。

 年齢以外のもっと様々な要因(例えば母語で基本的な概念の理解ができているか、相性のよい教師にめぐり会えたか、など)の方が決定的に関係している。

母語、日本語の基礎を教える時期になぜ英語が必須科目なのか
 小学生に英語を教えてはいけない第2は、7歳~11歳頃の母語をしっかり学ばせなければならない時期に、教科として「外国語活動」なるものがなぜ必要なのかという点だ。なぜ必修化しなければならないのか。

 日本語をきちっと習い身につけなくてはならない時期に、小学校でなぜ外国語を教えなくてはならないのか。習うべき漢字の数を制限して(しかも、ハネる・ハネないの差で1点を競うような本質的でないことをさせて)、英語の綴りを教えて何の役に立つというのだろうか。

 豊かな日本語表現の基礎をしっかり学ぶことの方がはるかに大事なこの年齢期に、そんなことなどお構いなしに叩き込まねばならない「外国語」があるのだろうか。

 きちんとしたことを教えるには不安だらけの先生たちがせいぜいできることは、通俗的なカタカナ言葉だけを伝え、いい加減なお遊びになることでしかないだろう。

 そうしないようにするには、大変な負担を強いることになるのは明らかだ。

大事なことはもっとほかにある
 数字や計算の基礎、計量の概念をきちんと押さえておかねばならない年齢期に、そのための時間を減らしてまでなぜ英語を教えなければならないのか。

 音楽や体育の時間を削ってまで、なぜ英語で教えなくてはならないのか。小学校で教えなければならないのは、しっかりとした日本人としての基礎教育ではないのか。

 自ら考える力、推論や論理の力、物を大切にする心、自然への関心、時間の概念、社会の仕組みの理解、人に対する同情・共感の心など人間としての基本教育と、その基礎としての母語・日本語教育が大事なこの時期に、それらを犠牲にした「国際理解」や「英語」教育にどれほどの意義があるのか。

15分だけ教えるのは、本気とは言えない
 第3は、週に1回1時間の英語授業で、生徒たちの身につく保証はどこにあるのかという点だ。しかも、最新の文科省の方針は15分間教えろだそうだ。

 しかも、「外国語」が、なぜ英語でしかないのか。もしも本気で、日本語の代わりに外国語を小学校から教えようと言うのなら、週に5日毎日、2~3時間ずつ、そしてさらにラボで毎日2時間程度を必修にしなければいけない。

 そうしなければ何の効果もないだろう。いい加減な上っ面のことしか教えられない。そのようにして徹底して教えて初めてしっかり身につけさせることができる。言語の学習とはそうしたものなのだ。しかも外国語ではなおさらだ。

国際理解と英語を習うこととは無関係
 第4に、英語を習わせることと、国際理解を深めさせることとは全く関係ない。本当に、国際理解を深め子供の興味を呼び起こし、関心を高めたいのであれば、ほかにもっと良い方法がいくらでもある。

 JICAの海外青年協力隊の帰国隊員の話を、成功談も失敗談も、聞かせたらいい。国際ボランテイア団体の方と一緒に仕事の現場を見させたらいい。

 日本に滞在する、アジア、アフリカ、中東、ラテン・アメリカからの人々との対話を試みればいい。現に日本に長く住んでいる外国人にも、ホームステイなどの機会を作って心を開きおつき合いすることでもいいだろう。

 長年外国に駐在した経験のある人々、会社員、駐在員、外交官、大使館、通信社、テレビや新聞など報道関係者の生身のお話を聞くのがいい。教室に来てもらって話してもらうといい。

 海外青年の船や、洋上大学などの小学校版を作り、3~4年生を半年くらい様々な国に連れて行くことなどいくらでもできる。海外の経験のない小学校の先生方にこれらの代わりをせよというのは筋違いだし、先生方には酷すぎる。

 こうした活動などは英語を習うこととは関係ない。英語以外の外国語がたくさんあることを教える方がもっと教育的だろうし、本当の「国際」理解につながる。

 英語よりもアジアの言葉、中国語、ハングル、インドネシア語、タイ語、タガログ、ベンガル語、ウルドウ、ヒンデイーやシンハラ語などはどうして教えないのか。

 北アメリカ大陸の先住民族のインデイアンの諸言語、スワヒリやスペイン語とその変種などが世界中で様々あることを児童に認識させることの方がはるかに日本の将来の国際化に役に立つはずだ。

 私がかつて経済学を教えていた米インデイアナ州の大学の同僚に、ドイツ系の名字を持った白人でスペイン語教員がいた。私は密かになぜドイツ語を教えないのか不思議に感じていた。

 その方は、ドイツ系ユダヤ人の両親がアルゼンチンに逃げて移住し、そこで生まれ育った方だった。戦前から戦後の複雑な歴史の一部なのである。

 英国から出した雑誌に載せた私の論文を、校閲してくれたのは米イリノイ州の大学教授のバングラデシュ出身の方で、その雑誌の編集者はオーストラリアの大学に勤めるインド出身の教授であった。

 複雑な世界を理解し、多様な人々と渡り合って仕事を進めるのに大事なことは、単に英語ができるということではない。

 人との協調性、理解力、判断する力、説得する言葉の選び方、そして常に次の段階での課題を見つけ適切に対処していく人間としての能力(ケイパビリテイ:私は「可能力」と呼んでいる)こそが重要なのである。

必修科目、教科にすると嫌になる
 第5に、必修教科にしなければならない理由は、いったいどこにあるのかという点だ。

 すべての学校で、すべての生徒にとって学ばなければなければならない、教えておかねばならない外国語とはいったい何なのか。この国はどこかの他の国の植民地ではない。

 敗戦後の連合軍による占領の期間はあるが、アジアでは植民地の経験のない数少ない国の1つだ。日本語という母語を持つ国なのだ。

 日本中どこに行っても通じる共通語を持っている。世界には、共通の母語を持たない国がたくさんある。共通語にしようと必死で教育を行っているが、全国レベルでは、過去の歴史的経緯から英語、スペイン語やフランス語を共通語にせざるを得ない国、そうなってしまった国が多くある。

 そうでなければ、多数民族や強力な部族・氏族の言葉で国中が席巻されてしまうので、共通語としての英語などの教育は学校で必須となっている。ケニアやフィリピンなどを考えればすぐ分かるだろう。

 さらに言うと、学校でどんなレベルの教育でも必修にすると、その科目は必ず面白くなくなるものだ。いやになる子供が多くなる。

 必修科目で大多数の生徒、児童が楽しんでよく学ぶためには、教師の側にものすごい努力がいるし、さもなければ結局はどうでも良いお遊びとなるしかない。

 文部科学省の人々は、小学校の先生を、英語の担当の先生方を、忙しくして殺すためか、さもなければ「いい加減先生」を作るつもりなのだろうか。

 4~5年後にアンケートを取ってみたらいい。小学校の英語担当の先生方の状況が、これらの2者のどちらかになっているであろうことは、今から誰でも想像できる。

 小学生に英語を教えてはいけない。中学、高校で英語をもっと面白い科目にし、選択制にして、大学入試科目からは外した方が、我が国の国際化に役に立つだろう。
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 多少なりともネットに興味があり、海外の他民族が日本の事を語る時、なんか変じゃね?と疑問に感じている筈だ。

 何故そう感じるか考えた事があるだろうか?

 根本的には三万年の列島暮らしの日本民族は長い歳月列島内で意思の疎通を図ってきたのだ。他民族との接触も僅かだったかもしれない。民族の持つ遺伝子もアジア由来じゃないと今年発表がのあったばかりだ。古い血が脈々と受け継がれて来た事は間違いないだろう。又民族特有の概念やらアイデンティもだろうな。


 このブログを読んでくれてる人に言いたい。宮崎正弘メルマガに連載される「知動中国」は明治半ば。内藤湖南は筆談で十分会話していたではないか。そして支那の本質さえ見抜いていたではないか。日本の先人たちは偉大というしか言葉が見当たらない。総数二千以上とされる明治の翻訳語、「和製漢語」は日本人の誇りなのだと僕は思う。150年ほど前からの先人たちの汗と涙の結晶である和製漢語のお陰で、欧米諸国以外では唯ひとつ、民族の言語で高等教育が受けられるのが、我が日本人。


 大学受験から省けとまでは言わないが・・・。