宮崎正弘の国際ニュース・早読み< フィリピンで反米暴動、華僑の末裔が「基地撤去」で騒ぎ出し | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


 嘗ての宗主国であった米国が植民地だったフィリピンに愛想尽かしをされてしまったのは、ギャグマンガなのでしょうか? 米国人の知識やら知性やらの低さは軽蔑に値すると思うのは僕一人ではないと思います。


宮崎正弘メルマより
http://melma.com/sp/backnumber_45206_6436631/
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成28年(2016)10月20日(木曜日)弐
        通算第5068号 
                                        

 オバマの「アジアピボットは沈没した」が、比の「中国ピボット」はどうなる
   フィリピンで反米暴動、華僑の末裔が「基地撤去」で騒ぎ出した。
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 2016年10月19日、マニアの米国大使館前で、学生らが「反米」「ミンダナオにある米軍基地撤去」「米軍の駐留に合法性はない」と訴えて、過激なデモ行進を始めた。
 親米国家だとばかり考えられてきたフィリピンに反米運動?

 警官隊が導入され、40名近い学生等が逮捕された。殆どが華僑の末裔、チャイナタウンと裏で繋がっているようだ。
 マニラのチャイナタウンは世界最古のも移住タウンである。華字紙だけでも四紙が発行されている。

 まさにドウテルテ比大統領が北京を訪問し、財界200名余を引き連れ、「中比関係は改善。スカボロー岩礁近辺の漁業について中国と共同作業ができるかを探る」とした。
 国際裁判での裁定は中国の言い分を全否定しているのに、この裁定を北京は「紙くず」としたが、ドウテルトは華人であるがゆえにか、「棚上げ」とし、まっさきに経済関係を優先するとした。

 このタイミングで華僑系のフィリピン学生が『反米抗議デモ』というのは、裏がありそうである。

 ドウテルテは、オバマを「売春婦の子」と誹謗し、さらには「麻薬犯罪でフィリピンが取り締まりを強化し、犯人等を射殺しても良いとしたが、米国が人権問題だと非難した。「フィリピンで40万人を殺戮した米国にそんなことを言われる筋合いはない」と傲然と米国に楯突き、米比関係は急速冷凍。

 オバマの「アジアピボット」は沈没したが、フィリピンは「中国ピボット」は鮮明に動き出した。
 米国はスカボロー礁近辺の「自由航行作戦」をたまに展開しているが、フィリピンが不快とするならば、続けること自体が茶番になる可能性もでてきた。
 国際秩序、ここでも乱れだした。
       ◇○◇み□○◇や□○◎ざ○□□き◎○□   
                                        
 エッセイのページ 宮崎正弘
                                        
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西郷隆盛をめぐる江藤淳と芥川龍之介
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 ▼江藤淳の傑作は『南洲残映』

『江藤淳の言い分』(書籍工房早山)という本を書いた齋藤禎氏は、元『諸君』編集長で、その後、日経出版社の社長、『歴史通』の編集長を歴任した。
 その氏が江藤淳との交遊を振り返って、以下のように言うのだ。
「そもそも江藤さんは共産党員でもなかったし、共産党転向組でもなかったけど、実際はあの人って最後まで心理的にはラジカルで左翼だったんですよ。高校時代から社研に入っていたし従妹の旦那さんは江口朴郎さんですからね」(『知られざる出版「裏面史」 元木昌彦インタヴュィーズ』、出版人。発売=東洋出版)。
 この齋藤氏の発言は納得がいく。
筆者は拙メルマガ(宮崎正弘の国際ニュース早読み、15年5月29日号)に、この『江藤淳の言い分』を評して以下のように書いたことがある。

 「本書を最初、手にしたとき、これこそ予想しない出来事、椿事かと思った。予想もしなかった対象を著者の齋藤さんが撰んでいたからだ。なんで江藤淳なのか?
 どうやら江藤は晩年、意外にも丸谷才一をライバル視していたらしい。それは「文壇」という特殊な世界のことで、一般読者には想像がつかない。
 丸谷才一は、評者(宮崎)の若き日、ほぼ毎月一回会っていた。種を明かせば簡単なことで、学生時代「朝日新聞」を配り、集金をしていたから、当時市ヶ谷河田町の都営マンションに住んでいた丸谷のところへ集金に行くと、本人が胡散臭そうにでてきた。彼がジェイムス・ジョイスの翻訳者ということは知っていたが、小説も書いているとは知らなかった。根本某子という表札も飾ってあり、生涯のパートナーだった夫人とは籍を入れなかったらしい。
 つぎに会ったのは藤沢周平の葬儀のおりで、なぜか丸谷才一は藤沢周平と一度しか顔合わせをしたことがない関係だというのに、丸谷は毎日新聞のハイヤーで千日公会堂に現れ、弔辞を読んだのだ。同じ山形県出身ということで弔辞をのべることになったと言った。弔辞はそのまま毎日新聞にでた。
 文壇人たる丸谷は、その処世が文壇政治そのものであった。そして江藤も文壇を政治家のように泳いだ。そうした処世を展開する文人を好きになれなかった。
 だから江藤淳は文壇から嫌われ者だった。
 ところが齋藤さんが、なぜ江藤を書くのだろう、ト本当に不思議な気がしたのだ。
 齋藤さんと評者(宮崎)は氏が『週刊文春』デスクの頃から知り合いで、レフチェンコ証言で氏の活躍はめざましく、そのあと、『諸君!』の編集長も務められた。文春の役員から日経新聞出版にトラバーユされ、その取締役会長を務めるという異色人。ともかく文芸畑からは遠い編集者である。

 本書を通読して齋藤さんの江藤への思い、哀惜が理解できた。つきあいが深く、晩年に江藤が脳梗塞で倒れ、ホテル住まいをしようかと相談された折、帝国ホテルを紹介したという関係もあったそうな。
 帝国ホテルは藤原義江らも暮らしていた。藤島泰輔氏も一時期帝国ホテル住まいだったことがあり(1971年頃)、よく遊びに行ったことを思いだしたが、江藤氏は「ここはビジネス街のようだ」と言って、早々に鎌倉の自宅に帰ったという逸話は、なるほど彼らしいと思った。ついで言えば藤島さんは、その後、ニューオータニ暮らしだったが、同ホテルが中国に肩入れしたため、オークラへ移動した。
 閑話休題。さて江藤淳は多くの傑作をものにしたが毀誉褒貶が多く、柄谷行人、吉本隆明、粕谷一希なども批評しているが、齋藤氏は高沢秀次、山崎行太郎など文藝批評で異端的は評論家の議論もちゃんと紹介している。いや、江藤に関する書物は殆ど本書のなかで並んでいる印象である。
 没後、江藤氏を褒め称える文藝評論家が夥しく出たが、印象的なの読後感を抱いたのは西部邁氏くらいで、福田和也の追悼文にいたっては褒め言葉過剰である。
 評者は江藤を批判して止まなかった小林秀雄、福田恒存、村松剛氏らに近いので、江藤の作品は殆ど読んでいない。例外的に精読したのは『南州残映』である。したがって、これ以上踏み込む能力はなく、ただただ齋藤さんの追悼文的は伝記の意外性に瞠目したのである。これは『江藤淳外伝』でもある」(引用終わり)。

 この最後の文節に書いたように江藤淳は『南洲残映』で、みごとに窯変したと言える。晩年は左翼と訣別し、思想的立場を日本精神に着地点を見いだした。別の言葉でいえば、本格的に「日本回帰」したのだ。だから左翼からの「窯変」である。
 それは「西郷というのは日本の思想だ」と江藤が強調したあたりにある。


 ▼芥川龍之介も「西郷隆盛」を書いた

 芥川竜之介の場合、西郷を尊敬した気配は薄い。芥川が活躍したのは大正末期から昭和初期、世の中は西洋化のブームがひとまず治まり、国学が復活していたが、文壇は西洋かぶれ、そのなかにあった芥川は古典を題材として短編小説の旗手であった。
 
 『羅生門』や「蜘蛛の糸」が有名だが、芥川の短編のなかに『西郷隆盛」という作品がある。
こんにち、この作品を誰も顧みないが、面白いのである。
 所謂「西郷伝説」を扱っているもので、西南戦争直後から、西郷は錦絵となり、西郷星となり、なかには死んでおらず、シナ大陸へわたって孫文となったなど荒唐無稽な作り話も混ざった。
義経がジンギスカーンになった等という歴史空想物語りに似ている。西郷伝説のなかで、まったく否定できない一つは「台湾に偵察を命じられ、流島処分中に台湾にあって子供も作った」というもので、四半世紀ほど前に台湾でこの話を聞いたとき眉唾と思ったが、奄美大島に遠島処分となったときは自由に動き回り、向かいの喜界島にはツリに行ったり、愛加那という現地妻との間には子供も出来た。奄美大島の西郷流 は今日も残り、釣船をつないだという西郷松もちゃんと残っている。

 さて、芥川の西郷伝説とはこうである。
 夜行列車の食堂車で大学史学科の先輩『本間さん」は、偶然知り合った男と酒を酌み交わす。『真偽の判断は聞く人の自由です』と、後日、この列車での体験談を友人に伝え、芥川の耳にも届いた。
本間は維新歴史の研究で京都を訪れ、その帰りだった。
 食堂車には先客がひとり、老紳士がウィスキーを飲んでいた。「血色の良い両頬には、いささか西洋人じみた疎な髭を貯えている」。老紳士は近づいてきた。史学生とわかった本間に言った。「君もドクタアジョンソンに軽蔑される一人ですね。ジョンション曰く。歴史はALMANAC MAKERに過ぎない」 
 なるほど「歴史は年鑑作成者」か、皮肉でもないが、本間は専攻は西南戦争だというと、こんどは老紳士が挑むように問う。
 「どういう資料にしたがって研究されているか、しらないが、あの戦争については随分誤伝が沢山あって、しかもその誤伝が立派に正確な資料で通っています」と挑発的議論をふっかけてきた。
 本間の観察した老紳士は気が触れているわけでもなく、『聡明な、それでいてやさしみのある、始終なにかに微笑をおくっているような、郎然として目である」
 もし西郷の史伝や資料の類が誤伝だらけというのなら、何が正確なのか。老紳士は言った。
 典型の誤伝とは西郷は城山では死んでいない」ということだという。
 「しかもあのとき、城山で死ななかったばかりではない。西郷隆盛は今日までの生きているのです」

 本間は幾多の研究資料を挙げて正確に反駁した。しかし老紳士はそれらの資料が誤伝でしか無く、それならと問う本間に、「それは西郷隆盛が僕と一緒に、今この汽車に乗っているということです」と、老紳士は「厳粛に近い調子で、のしかかるように言い切った」のだった。
 しからばと二人は寝台車に寝ている西郷隆盛なる人物に会いに行く。
 いた。西郷は寝ていた。「やまのような白頭の肥大漢と、ーーああ、その堂々たる相貌に、南洲先生の風骨を認めたのは果たして自分の見違いであったろうか。あすこの電灯は、気のせいか、ここよりも明るくない」けれども、「あの特色のある目元や口元は、側へ寄るまでもなくよく見えた。(中略)子供の時から見慣れている西郷隆盛の顔であった」
 戦慄、驚愕を覚えて食堂車へもどり、それでも半信半疑の議論、歴史論を続けていると、やおら老紳士は笑いをこらえて「あれは僕の友人です」とからくりを説明する。
 そしてこう付け加えたのである。
 「僕はビルロン(バイロン)の弟子で沢山だ。我々は何も知らない。いやそういう我々自身のことさえも知らない。まして西郷隆盛の生死をやです。だから僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する」
 芥川の言い分は歴史学の認識論ととれ、じつは西郷生死説は、材料にすぎない。しかし、あの芥川の時代にさえ、西郷伝説が日本のすみずみになで浸透していたという時代背景を把握しておかなければならないだろう。

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 (西郷に関してのエッセイは時折、掲載します。再来年の大河ドラマは、維新150年、西郷です。来年中には拙著の『西郷隆盛論序説』も予定しています)

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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者之声
                                        
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(読者の声1)第129回「東アジア歴史文化研究会」のご案内
 この度の研究会は、拓殖大学客員教授の藤岡信勝氏に「日本人が知らなかった通州事件と南京事件の真実」のテーマで語っていただきます。
1937年7月29日、北京にほど近い居住区で日本人二百数十人が中国人保安隊に惨殺されたいわゆる「通州事件」は長い間隠蔽され、忘れ去られた出来事でした。一方、アジアを侵略した日本軍は「南京大虐殺」などの蛮行を行ったというストーリーが語られてきました。
ところが、近年、中国こそが日本人に対して残虐な仕打ちをしたのであり、「南京大虐殺」はつくられた政治プロパガンダに過ぎなかったという、歴史の真相が次々と明らかになってきました。
同時に「通州事件」が中国人によるいかに残虐な事件であったのか、目撃証言なども含めて歴史の真実を皆様とともに学んで参りたいと存じます。
          記
日 時 2016年10月26日(水)午後6時30分 8時45分
場 所 常円寺・祖師堂地下ホール
     http://www.joenji.jp/annai.html
新宿区西新宿7-12-5 電話03-3371-1797
テーマ 「日本人が知らなかった通州事件と南京事件の真実」
講 師 藤岡信勝氏(拓殖大学客員教授)
参加費 2,000円
連 絡 東アジア歴史文化研究会事務局
TEL:080-7012-1782
Eメール:e-asia@topaz.ocn.ne.jp

<藤岡信勝氏 プロフィール> 1943年北海道岩見沢市生まれ。1971年北海道大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。1971年名寄女子短期大学(現市立名寄短期大学)専任講師。1979年北海道教育大学釧路分校助教授。1981年東京大学教育学部助教授。1991年東京大学教育学部教授。1997年新しい歴史教科書をつくる会副会長。2002年東京大学大学院教育学研究科教授。2004年拓殖大学日本文化研究所教授。新しい歴史教科書をつくる会会長(2007年 11年)等を歴任。現在、拓殖大学客員教授。
 通州事件アーカイブ設立基金代表。慰安婦の真実国民運動幹事。著書に『自由主義史観とは何か』(PHP文庫)、『汚辱の近現代史 いま、克服のとき』(徳間書店)、『「自虐史観」の病理』(文藝春秋)、『高杉晋作 誇りと気概に生きた幕末の風雲児』(明治図書出版)、『呪縛の近現代史歴史と教育をめぐる闘い』(徳間書店)、『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究 中国における「情報戦」の手口と戦略』(祥伝社、東中野修道共著)、『教科書採択の真相 かくして歴史は歪められる』(PHP新書)、『国難の日本史』(ビジネス社)、近刊『国連が世界に広めた「慰安婦=性奴隷」の嘘』(自由社)その他多数。
  


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(読者の声2)クリルタイ(世界南モンゴル会議)へのご支援のお願い
 南モンゴル人は政権を失ってから何百年に至っています。清朝が崩壊した時も、第二次世界大戦後も、南モンゴルは民族自決を実現することができませんでした。
これにはモンゴル民族自身にも、また、当時の国際情勢にも原因がありますが、いずれにせよ、現在南モンゴルは、中国政府の事実上の支配下に置かれ、漢人の大量流入、環境破壊、土地の強奪などが起きています。
 このままでは、南モンゴルの草原は漢人に完璧に奪われ、子孫が母国語を忘れさせられ、モンゴル人の生活がさらに悪化し、民族が滅没する恐れがあります。このような厳しい状況に対応して、私たち南モンゴル人は、国内でもまた海外でも、連帯して抵抗していかなければなりません。

我々は、国連の憲章や法律条文に従い、各民族は自らの代表を選挙し、自分の政治的自決権を取り戻して、他民族の抑圧から脱して、自民族の自決権を獲得するための連帯組織を構築することを、二年前から目指してきました。そのために「南モンゴルクリルタイ(世界南モンゴル大会)準備委員会」を結成し、様々な議論と準備ののち、今年の11月10日に「南モンゴルクリルタイ(世界南モンゴル大会)」を、ここ日本の東京にて正式に結成する運びとなりました。
 日本人とモンゴル人は、これまでの歴史の中で様々なつながりを持っています。特に、明治維新後の近代史において、モンゴルは日本の影響下近代的な教育を受けてきました。
そして、アジアにおける近代的な民主主義国家として歴史的な役割を果たしてきた日本国にて、このクリルタイを結成することの意義は私たちモンゴル人にとって誠に大きなものがあります。
しかし、この大会の成功のためには、何よりも経済的な基盤が不可欠です。もちろん、モンゴル人がまず第一に努力することは当然のことですが、日本の皆様にも、景気がいまだ十分回復しない中、ご無礼なお願いとは申しますが、私たちの運動にご支援を賜りますよう、どうかよろしくお願いいたします。
(南モンゴル人クリルタイ準備委員会 準備委員会幹事長:ホルノード・ダイチン)
 連絡先:南モンゴル人クリルタイ準備委員会  
ダイチン:080-9129 2872
募金する銀行口座:ゆうちょ銀行  記号番号:10160 85041661
        名前:クリルタイ(エスエムシー)ジッコウ イインカイ


(宮崎正弘のコメント)「南モンゴル」は中国が侵略して、勝手に地図に編入し、「内蒙古自治区」などと呼ばせています。独立を主張するモンゴル人への弾圧は想像を絶しますが、日本ではウィグル、チベットの悲劇はよく知られていても、この南モンゴルの悲劇はよく知られていません。
 日本人ビジネスマンが知っていることは、この地域がレアアースの産地ということくらいでしょうか? これとてモンゴル人の資源を漢族が横領していることになります。
 横暴傲慢な中国共産党の魔手から、モンゴルの民を救う戦いは地下運動のように、静かに、しかし世界的規模で進んでいます。なにがしかの支援をしたいものです。

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 蒙古族は嘗ての「五族共和」を掲げて立国した「満州国」の構成民族でも有りました。友情を何時までも持ち続け、連帯していく事が先人たちの意に沿うものだと僕は思います。


 そんな満州から栃木に転進させられた司馬遼太郎こと福田氏は単に役立たずの戦車隊長だったのか? 「講釈師、観てきたように嘘を言う」のが、福田氏の役割だったのか? 集めた蔵書が四万冊とか。重箱の隅を突いて針小棒大に描いたものが彼の歴史小説だったのでは? 虚実取り混ぜた彼の歴史観は果して??だけが今は残っている。「氷川余話」に坂本龍馬はと探してみたが・・。流石に歴史の講釈師だ。