知動中国  宮崎正弘の国際ニュース・早読み [宮崎正弘の国際ニュース・早読み] - メルマ! | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


 日本人はと言っていいのか、「僕」がと言うべきか。

 欧米列強のシナ進行?は海からとばかり擦り込んでしまったせいだが、イギリスもフランスもヒマラヤ山脈の南側から攻め入って来たのに気付いていなかったのには馬鹿と言われても仕方ない。

 ベトナムの歴史を掻い摘んだ本を読んで、フランスの意図の先にあるのがシナと知ってから、日本軍がベトナムやビルマまで進行したのが判ったのは自分に対して残念と思ったのだ。顔から火が出そうだ。

 陸軍航空隊が裏(こんな書き方も変だが)側から米のフライングタイガーと戦ったかの意味も判らなかったから、ホント阿呆だった。


宮崎正裕メルマより
http://melma.com/sp/backnumber_45206_6385726/
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 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
                                        
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1430回】    
   「今や紀綱衰頽し萬國の嘲侮する所たり」(宮内4)
     宮内猪三郎『改正清國事情探檢?』(清國事情編輯局 明治廿八年)

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清末の重慶で領事を務めていた父親を回想し、フランス人作家リュシアン・ボダールは次のように記している。
 
「青い大河の渓谷のはるかかなた、世界一の尾根のふもとに、肥沃な四川盆地がひらけている。私の父のアルベール・ボダールは重慶でフランス領事の職にあった。重慶は揚子江(長江)の激流をかきわける船首のような岸壁にしがみついている街である。驚くほど急勾配の階段、ありとあらゆる商売、はるばる上海からさかのぼってきた砲艦が接岸できる港・・・・・領事の激務に励む父の夢は、インドシナに拠点をもつフランスがこの中国の地を支配下に収めること、ハノイから敷設される鉄道を活用して中国を保護化することにあった。父は四川省の省都成都で、次いで雲南省で、この途方もない計画の実現に奔走することになる」

 いいかえるなら清朝末期において、「インドシナに拠点をもつフランスがこの中国の地を支配下に収め」、「ハノイから敷設される鉄道を活用して中国を保護化する」という「途方もない計画の実現」が、重慶で「領事の激務に励む父の夢」だったのである。

 フランスに対するにイギリスは、植民地であるインドを東に進んでビルマを併呑した後、ビルマ北部要衝のバーモ(中国人は「八莫」と記す)、ミートキーナ(ミッチナー。中国人は「密支那」と)を経て雲南西南端の騰越に橋頭堡を築き、ここに領事館を設け、ビルマと雲南の回廊を扼し、西南方から清国を窺う。19世紀末から20世紀初頭のことだった。

 いずれイギリスとフランスの両国は「この中国の地を支配下に収め」、「中国を保護化すること」を狙っていたわけだから、宮内の説く「紅毛碧眼の士、動もすれば五洲坤輿を併呑せんと欲す」る時代に突入していたのであった。

であればこそ、宮内の「我 皇祖大神の祠を四百州に立て彼をして敬拝せしむるを祈る」、「苟も今日に之を懲らさざれば、異日の患は測る可からず。又、宜しく警戒、怠らざる可し」、「同じく是れ同文の國、今後、千万年、我が邦に制を受くるも亦、非と爲さず」、「側聞せば、紅毛碧眼の士、動もすれば五洲坤輿を併呑せんと欲す。我が邦人士、亦、宜しく豪氣を彼の輩の上に在らしめ、勲業、遂に彼の輩の傲を壓っせん」といった主張は、血気にはやる青年の荒唐無稽な大ボラでも、日本が抱いた清国侵略の野望の証でもなく、当時の風雲急を告げる東亜の情況に対する危機感の素直な発露と捉えられないわけではない。

宮内の主張を目にしていると、明治34(1901)年に上海に設立された東亜同文書院(昭和14=1939年、大学昇格。昭和20=1945年、敗戦に伴い廃止)の代表的寮歌とされる「長江の水」(大正6=1917年)が思い出される。

「長江の水天を尽き 万里の流れ海に入る」と唱いだされる「長江の水」は全部で7番まであるが、「惨たる東亜の風雲に 凄愴の眉あがるかな」、「中華千古の光褪せ むなしく空に消えてゆく」、「亡国の恨汝知るや 巨象の病篤くして 外豺狼の牙とげど 岳飛天祥逝いてより 憂国の士なし世をあげて」、「緑の大野にたゝずみて 光瞳に空高く かの星雲を仰ぐとき 天籟声あり汝立ちて 東亜の光かゞやかせ」と続き、「人生意気に感じては 功名誰かあげつらふ 見よ九天の雲を呼び 乾坤一擲高飛せん 燃ゆる血潮にいざ歌へ 歌はゞ血潮のなほ燃えむ」と結ぶ。

 どうやら宮内の危機感は、「長江の水」を高唱する青年の客気に通じるようにも思える。

 宮内の旅行は明治25(1892)年から明治27(1894)年。日清戦争勃発は宮内帰国の3か月後だった。宮内は「我邦光澤ヲシテ更ニ發揮」せしめんと「東京市小石川區新諏訪町廿一番地」に学文会を組織し、雑誌『新天地』の発行を試みるが、その先は不明である。
《QED》 
                    
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【知道中国 1431回】
    「生蕃ノ支那人ヲ見ルコト仇讐モ啻ナラス」(長谷川1)
   長谷川鏡次『台灣視察報告書』(明昇舎 明治廿九年)

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 著者の長谷川鏡次(明治5=1872年 昭和4=1929年)は岐阜の産。東京高等商業学校主計科で学んだ後、東京材木倉庫勤務を経て大湊木材社長。東京材木問屋組合長、東京商工会議所議員などの公職を歴任しているから、根っからの企業家と思える。

 冒頭には、男爵で貴族院勅撰議員を務め、明治政府で中心になって殖産興業政策を立案・実施し、後に釧路で日本最初のパルプ・メーカーである前田製紙合資会社を設立した前田正名が「全國實業團体會頭」の肩書で紹介文を寄せている。それによれば、『台灣視察報告書』は明治28(1895)年に材木商団体の依頼を受け、「臺灣材木業視察の爲」に数か月の台湾を旅行した後に書き上げた報告書  現代風に言い換えるなら、台湾の木材業に関するフィジビリティー・スタディーということになりそうだ。

 前田の紹介に続く「自序」で長谷川は、全国材木業者団体から「臺灣商業視察」の依頼を受け、明治28年の年末に台湾最南端の恒春に上陸した後に北上し、中部の台南を経て台北へのルートで調査・見聞を行なった、とのこと。「在島僅々百數十日」の短時日に加え、「矇昧野蠻の國」であり、10月の台湾平定直後ということもあり社会は落ち着かず、さらには言葉の問題もあり、調査が困難を極めたであろうことは想像に難くない。ゆえに報告書の出来栄えに就いては「慚汗背に洽きものあり」と。
 続いて「臺灣の商業は支那本土と密接の關係を有する」から、やはり本土の事情を調査しなければ「到底其完全を期す」ことはできない。そこで台湾海峡を挟んだ「福州厦門の商況」の視察を明治29年秋に計画と記しているものの、予定通りに実行されたかどうかは不明だ。

 長谷川は自らの記した『台灣視察報告書』を「不文更に拙を加ふ」とするが、木材業の将来展望という目的を持った現地調査といった側面から考えると、宮内に典型的に見られるような悲憤慷慨調の紀行とは色合いを異にしているだけに興味深いものがある。あるいは、長谷川の調査から木材業者を軸とする日本の経済界が日清戦争後の台湾を如何に見据えていたかが読み取れるかも知れない。

 以下、「第壹章 緒論」、「第貳章 商業ニ關スル事項」、「第參章 臺灣ノ材況」、「第四章 都会及開港塲」、「第五章 交通?運輸」、「第六章 臺灣嶋生蕃」、「第七章 樟腦」、「第八章 結論」と目次の順番に沿って読み進むこととする。

 長谷川は台湾の歴史を「一倭寇侵畧ノ時代」、「二日蘭衝突ノ時代」(以上を合わせて「たかさご」期)、「三蘭人跋扈ノ時代(ふをーもさ)期」、「四鄭氏割據ノ時代(東都東寧期)」、「五清國占領ノ時代」、「六日本新領ノ時代」と分けて外接した後、「要スルニ臺灣ハ始メ日本人ニヨリ拓カレ蘭人之レカ中繼ヲナシ鄭氏其跡ヲ擴張シ清國亦之レヲ整理シ遂ニ最初開拓者タル日本人ノ有ニ歸セリ又奇ナリト云フベシ」とする。台湾開拓に功績のあった日本人として、「天正文禄ノ頃ノ原田孫七郎」や「慶長元和ノ交」の頃の「長崎ノ豪商濱田彌兵衛」を挙げている。

 長谷川の理解するところでは、日蘭清角逐の後、日清戦争の結果として台湾は最初の開拓者である日本人の手に戻って来た。ということは、台湾は日清戦争の結果として清国から日本に割譲されたわけではなく、本来の持ち主である日本が取り戻した  これを香港返還に見せた中国側の対応に倣って表現するなら、台湾は日本に「回帰」したということ。

 瘴癘を極めた自然環境において猛威を振るう「臺灣熱(まらりあ)」の対策は日本の進出のカギを握っていたわけで、それゆえに公衆衛生や現地人のマラリア対策に多くの紙幅を割いている。次いで長谷川の筆は、住民の日常生活に及ぶこととなる。《QED》
     ◎◎◎ヒ◎◎◎イ◎◎◎ズ◎◎◎ミ◎◎◎ 
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 森も林もほぼ無かったのは今までの「知動中国」でも出て来ていた。何処かの港湾に材木屋がというのもあった。

 台湾の活用をそんな風に考えてもいたんだなとチョット感慨深い。米や砂糖とばかり戦前の台湾を見ていたから、これも阿呆だったかな?


 でも外地に無駄?とも見える金を使わなくなっただけで、戦後の日本の発展は信じられ無いくらいのスピードだった事に今更気付くのもやはり阿呆だった。

 そんな金を国内で使っていたらとも思うのは母やその妹の人生も又、違っていたのだろうと思うからだ。

 しかし、日本が進行していなければ、日本も確実に?植民地化の運命となったのだろうかと一瞬頭の中をよぎる。進駐軍のマッカーサーが議会証言で、日本の自衛戦と言ったのは彼の自戒でもあったのか。彼の証言を広く日本中に晒すのも役には立つのだろう。



日本人の手に日本を取り戻そう!!