【再掲】
日本人≒日本民族は特殊な存在なのです。自然と共生してきた唯ひとつの民族なのです。
加瀬英明のコラム
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■ あいさつの言葉のなかに日本がある
Date : 2016/01/05 (Tue)
日本語のなかに、外国語にひとことで訳せない言葉が、沢山ある。
私は英語屋だ。海外と折衝することによって、糊口(ここう)を凌いできた。
外国語にならない日本語が多いと思うたびに、日本人として生まれてよかったと、深く満足する。
箸をとって食事をはじめる時に「いただきます」というが、中国語、韓国語、英語などのヨーロッパ諸語に、このような表現がない。
英語であれば食卓を囲んでから、主なる神に感謝する、短い祈祷文を唱えたものだ。
いまでは、多くの英語国民の信仰心が薄くなったが、ほかにきまった言葉がないので、フランス語を借りて「ボナペティ」(よい食欲を)という。
お隣の韓国では「チャルモッケスムニダ」(これからよく食べます)、「チャルモゴスムニダ」(よく食べました)だし、中国語では「開始吃飯(クアイスツーファン)」(これから食べます)、満腹になったら「好吃飯了(ハオツーファンラ)」(よく食べました)という。
天地の万象に感謝
私たちが「いただきます」「御馳走さま」という時には、天地(あめつち)の万象に感謝する。だから、だされた食事を残してはならない。
心や、和も、英語にない。親しい友人のヘンリー・ストークス氏にたずねたところ、文面で回答をくれた。『ニューヨーク・タイムズ』や、『ロンドン・タイムズ』などの東京支局長を歴任したジャーナリストだ。滞日50年になる。
「『こころ』を、英語でどのように訳したらよいか。1語で、とうてい訳せない。そういってしまうと、『欧米人には「こころ」がないのだ』といわれると癪なので、ずっと考えたが、思い当たらない。
『こころ』の言葉を英語で求めると
『こころ』とまったく同じ英語はないが、『こころ』のような意味で、『ハート』や『マインド』を使っている。辞書で調べると、『ハート』や『マインド』には、数多くの意味がある。
『マインド』は思考に近い。頭で考える範疇で、そこから『アイディア』が生まれてくる。ほかに『マインド』には、『思考、感情、意志などの働きをする』心、『理性を働かせる』知性、記憶や、考えなどの意味がある。
A strong (weak, clear, shallow) mind 『強い(弱い、明晰な、浅薄な)心』という。A sound mind in a sound body.『健全な精神は健全な肉体に宿る』という格言もある。
『ハート』は心臓だ。心配ごとがあると、心臓の鼓動が乱れて、胸が苦しくなる。
My heart leaps up.(心が躍る)という表現もある。My heart is full.というと、『胸がいっぱい』だ。『心』に近いからだ。英語では What the heart thinks, the mouth speaks. (心に思ったことは、口に出る)という諺もある。
『和』という言葉も外国語にない
人々のあいだの『和』だが、この『和』も世界のなかで、日本にしかない。
この『和』という言葉も、ひと言で外国諸語に訳することができない。中国にも、インドにも、どこにもない。
英語なら、きっと『ハーモニーharmony』——音や、行為、考え、感情などの調和、一致——が近いと、思われるだろう。
だが、『ハーモニー』は人々が音や、考えや、行動を調和させるか、一致させようと思いたって、参加している人々がそのように決めた結果として、もたらされるものだ。
『和』は泉の如く湧き出ずる言葉
だが、日本人にとっての『和』は、つねに日本人のこころのなかにあって、心からごく自然に涌きでるものなのだ」
私が所蔵している、全20巻の『日本国語大辞典』(小学館)によって、「こころ」が頭についた言葉をひくと、「心相(こころあい)」から始まって、「心有(こころある)」「心合(こころあ)わせ」「心意気(こころいき)」「心一杯(こころいっぱい)」「心入(こころい)り」「心得(こころえ)」「心覚(こころおぼ)え」「心堅(こころかたし)」「心掛(こころが)け」「心構(こころがま)え」「心配(こころくば)り」「心化粧(こころげしょう)」「心様(こころざま)」「心魂(こころだま)」「心盡(こころづく)し」など、400近い言葉がこれでもか、これでもか、というようにでてくる。
日本人は、心の民なのだ。
ちなみに三省堂の『最新コンサイス英和辞典』で、heartをひくと、heartache(心痛)、heartbeat(心臓の鼓動)から、heartwood(材木の心材)まで、僅か26の熟語しか載っていない。英語をはじめとするヨーロッパ諸語では、「心」は動物の心臓に近いのだ。
世界諸語のなかで、「お猫さん」「お猿さん」「トンボさん」「お寺さん」「新聞屋さん」「飲み屋さん」「御馳走様」「世間様」というように、あらゆるものに「さん」「様」の敬称をつけるのは、日本だけである。人間様だといって、威張ることがない。
万物は全て神様
私はよく祖母から、「そんなことをしたら、世間様に顔向けできません」「世間様に感謝しなさい」と、たしなめられたものだった。
世間が神になっているのは、日本だけだ。和の心から、発するものである。和が神なのだ。
私は地方を訪れるたびに、駅の構内に駅弁が並んでいるのに、見とれてしまう。仙台駅の「炭焼牛タン弁当」、横川駅の釜に入った「峠の釜めし」、鎌倉駅の「かまくら旬彩弁当」‥‥日本中の主要な駅の数だけある。
駅弁の数々は日本の心の風景である
世界の二大美術館といえば、ロシアのサンクトペテルブルグのエルミタージュと、パリのルーブル美術館が有名だが、駅弁は足を停めて、目で堪能するだけで、エルミタージュや、ルーブルを訪れるのと、同じ価値がある。
盛り付けが美しい。幕末から明治にかけて、ヨーロッパの人々がはじめて日本の浮世絵に出会った時と、同じような衝撃を受ける。
日本は世界のなかで、美的感覚がもっとも突出した文化だ。これほどまで、美にこだわる国民は他にない。
日本人が寡黙なのは、何ごとにつけ、心を大切にするからである。
心が美しいことや、ものを、求める。私たちが論理を疎(うと)んじて、理屈を嫌ってきたのは、美は言葉で説明すべきでないからだ。
私たちは中国人や、韓国人や、西洋人のように、饒舌に理屈を用いて、何が正しく、何が悪だときめつけることをせずに、何ごとについても、美しいか、清くないかということを、尺度とする。言葉は少ないほうがよい。言葉は邪魔になる。
言葉は主張と弁解により生きる
私は言葉に備わっている最大の機能は自己(エゴ)の主張と、弁解することにあると思う。日本人は和を大切にするから、言葉を信用しない。
言葉は言い争って、相手を負かす道具である。
いま、中東を舞台として、イスラム教の二大宗派であるスンニー派と、シーア派が殺し合いに明け暮れているが、このあいだまでキリスト教が旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に分かれて、ヨーロッパを荒廃させた宗教戦争を再演している。
私たちには、キリスト教や、イスラム教や、その分派である共産主義は、論理を振り翳して諍(いさか)うからなじまない。言葉を乱用すると、心が和まない。
私たちの先人が、世界に類(たぐい)がない寡黙な文化を培ってきたのは、素晴しいことだ。
古来から、日本では言挙(ことあげ)する——声を張りあげて強調していうことを、嫌ってきた。
和を大切にしてこそ存在がある
私たちは和を大切にして、譲り合って生きてきた。いがみあうのは醜く、美しくない。
日本には外国であれば、ありえない戒めが多いが、「負けるが勝ち」という言葉も、日本にしかない。外国人にいくら説明してみても、怪訝な顔をして、理解してもらえない。日本の外の世界では、一度負けてしまったら、再び立ち上ることができない。
だから、河野官房長官談話のように、心にないのに詫びたら、外国では通用しない。
日本は「美(うま)し国(くに)そ あきづ島大和の国は」(万葉集、あきつは蜻蛉(とんぼ))というように、諍(いさか)うことを嫌う、美しい心が宿る国なのだ。
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他民族と決定的に相違するのは?言葉です。言語と言い換えても良いでしょうね。
昔々、半世紀以上前、ヒネルトジャーは水道なんて言葉遊びをしていました。ある時アメリカへ渡ったおばさんが、バスで降りる時に「揚豆腐」と叫ぶという話を。「 get Off」わたしゃ降りるよですね。そんな風に日本人には聞こえたのです。母音中心の言語は日本語以外ほとんど存在していませんね。
私たち日本人は古い血を、古い遺伝子を受け継いでいる民族なのです。原始の生活はどんなだったのでしょうか?猿やゴリラのように食糧さえ豊富なら、争わないで生活していたのでは?
そんな古い古い血を受け継いでいると考えるならば、「和の民」と自称するのも納得しませんか?
争わない民族。それが他民族には理解し難いのです。そんな民族である事を誇りに思いませんか!