地道中国  宮崎正弘の国際ニュース・早読み(IS,中国人人質を殺害) | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


 「地道中国」の筆者のマカオ探訪記?に、現代支那人の本質が見えたと思いませんか? かの民族の持つ遺伝子は日本人とは似ても似つかない物なのですね。


宮崎正裕メルマより
http://melma.com/sp/backnumber_45206_6289667/
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
                                        
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1325回】       
  「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛  」(岡66)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
  
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 背後から覗き見ると、兄貴は首筋にも汗を光らせていた。緊張感の極と言ったところか。しばらくすると舎弟の1人に二言三言呟いた後、彼は席を立つ。それとなく後をついて行くと厠所(トイレ)へ。鏡に映る自分の姿を眺め、顔を洗う。緊張感をほぐして、気分一新で鉄火場に臨もうというのだろう。一足先に戻ってみると、隣の有閑マダムは仲間と思しきド派手な衣裳の厚化粧と、バカ話をしながら平然と勝負をこなしている。

 マカオのカジノで見た一瞬の光景から、日中両民族の比較などと言った大仰なことを引き出そうなどとは思はない。だが、博打・賭博を前にした日本の兄貴と香港の有閑マダムの振る舞いの違いは、余りにも対照的であり印象的だった。

一般に日本人は射幸心に身を任せることを好ましいことだとは思わないだろう。つまりリスクを取ることは不得手ということ。ところが彼らは、その反対。リスクを取ることを厭わない。いや過激なまでに積極的といっておこう。 介石に賭け大損し、次いで毛沢東に張って手痛いしっぺ返しを喰らい、最後の最後に 小平に縋ったところがドンピシャの大当たりで予想外の大儲け  これが現代中国の歩みではないか。羹に懲りて膾を徹底的に吹くのが日本人なら、羹なんぞに全く懲りずに次も貪欲に羹を頬張るのが中国人だろう。

1999年12月。そのマカオは2年前の香港に引き続き、中国に返還され中華人民共和国澳門特別行政区へと衣替えした。

帝国主義の亡霊のようなマカオから社会主義の“人民共和国”に「回帰」したのだから、てっきりカジノは全廃と思いきや、カネ稼ぎに関していうなら共産党政権は超強欲。いわば弱肉強食の超野蛮資本主義、いや有態にいうならヤッチャ場の化け物だった。

経営権を大々的に売り出すや、香港やらマカオの阿漕な金持ちが先を競ってカジノ・ビジネスに参入する。かくて巨大カジノを併設、いや超豪華な巨大ホテルを併設する巨大カジノが次々に生まれ、規模・取引額・客数のなにもかもが瞬く間にラスベガスを追い抜いてしまった。カジノ都市マカオの大発展だ。もちろん客は 小平に張った金満中国人。今風に表現するなら“爆買い”ならぬ“爆張り”である。

 そんなある日、香港からマカオへ出かけてみた。留学生当時には高値の花だった水中翼船に乗って周囲を見渡すと、なんともシミッタレた風の客ばかり。これでは昔の薄暗い夜行船三等船室じゃないか。それもそのはずである。金持ち客は個人用超豪華ヘリコプターでアッという間にマカオの超豪華ホテル付設のカジノ、それも超VIP用個室カジノへとゴ案内 ッという寸法だ。
 マカオに近づく。かつてはマカオのシンボルだった高層のリスボア・ホテルは、林立する超巨大ホテルや超豪華タワー・マンションの中に埋もれ惨めな姿を曝している。埠頭に一番近いカジノへ。体育館のように大規模なカジノの真正面に大きく「娯楽場」の3文字が。カジノではない。彼らにとっては飽くまでも娯楽場なのだ。巨大なドームに足を踏み入れると、無数のテーブルを前に、現金やらチップを握りしめた老若男女  ほとんどが中国からの  が躍動している。彼らの挙げる歓声がグワーンと丸天井に反響し、賭け事が醸し出す一種の“うしろめたさ”などは微塵も感じられない。まさに娯楽場、いや娯楽場としか形容しようのない、やけに生き生きとして明るい巨大空間だった。あるいは林語堂の顰に倣うなら、彼ら民族にとっては賭博もまた一種の暇潰しなのだろう。

 今夏の上海で株価が乱高下するや、「股民」と呼ばれる零細個人株主が多い中国の株式市場は不健全で未成熟との声が聞かれた。だが、そんな“マトモな批判”が超巨大カジノに狂奔する股民に、ましてや胴元の共産党政権に通じるわけがないだろうに。
《QED》
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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者之声
                                        
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(読者の声1)尖閣諸島をめぐる2つの問題についてです。平素から諸々誠に有益な勉強をさせて頂き有難く御礼申し上げます。さて質問です。
第一問.台湾の来るべき選挙にのぞみ野党、与党いずれも「尖閣の領有」について言及していますか? しているとすればどのような表明でしょうか。
有権者はそれについてどんな反応でしょうか。
第二問。かって石原都知事が同島を買い取る動きをして、資金が不足するので広く募金を募りました。
小生も賛同して、幾許かの寄付をしましたが、記憶がさだかではありませんが、数億の金額が集まったと聞き及んでいます。そのお金は 現在はどうなっているのでしょうか?
(憂国愚老人)


(宮崎正弘のコメント)総統選の論点に尖閣はなっていませんが、個々の演説現場では言及しているかもしれません。与党は「尖閣は台湾領」と言っております。
 野党は政治家それぞれに意見がことなりますが、大雑把な印象でいえば、尖閣は日本領と李登輝閣下のようにはっきりと言い切っている議員は少数派です。
 石原時代の尖閣基金ですが、あのまま凍結され、いずれ何かに使うまで貯蓄していると聞き及んでいます。



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(読者の声2)あるブログで、宮?さんが過日、四日市で開催された「森田必勝追悼記念集会」で、記念講演をされたことを知りました。
 わたしは四日市に近いところに住んでいるので、事前で知っていれば伺いたかったです。
そのおりの記録とか、講演要旨がなにかに掲載される予定はないですか?
是非、読みたいです。
  (YU子、名古屋)


(宮崎正弘のコメント)要旨に近い拙論は発売中のムック「ジャポニズム」に載っております。また伝記でしたら、中村彰彦「三島事件  もう一人の主人公」(ワック)が参考になりますし、第一級史料は森田必勝遺稿集「わが思想と行動」(日新報道)に詳しくでております。拙講演記録は三島研究会の会報に掲載されるかも知れません。
 またもし憂国忌に参加されるのでしたら、当日配布の冊子に若干の拙文があります。三島研究会会員、ならびに憂国忌賛助会員の方には出欠にかかわらず、この記念冊子は十二月初旬に発送されます。



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(読者の声3)関西方面の読者の方へ。
戦後教えられてきた歴史観はGHQ史観に日教組などが相乗りした日本暗黒史観であります。江戸時代は身分制度が厳しく絶望的時代であったとされます。しかし日本の江戸時代は正学は儒教でありましたが、一方で和算という独自の数学も発展し商いも盛んになり資本も蓄積されました。そこで日本の歴史を再認識するためにも、幕末の財政改革家“山田方谷”について、語って頂きます。
 是非ご友人知人にも声を掛けて頂き、奮ってご参加きます様よろしくお願い致します。
   記
1.日時:平成27年12月5日(土) 13:30 17:00
2.内容: ?部 1330 1500 
     講演 :ビジネスマン育成塾   野宗 邦臣 塾長
テーマ:「日本のケインズと呼ばれた男」
          ー幕末財政改革の巨人“山田方谷”に学ぶー
   ?部  1500 1530 
     講演:適心塾    江口 榮典 塾長 
     テーマ: 「芦田内閣秘話など」            
1600 1700  懇親会
3.場所:たかつガーデン(大阪府教育会館)3F 「ローズ」会議室 
      TEL:06(6768)3911   〒543-0021 大阪市天王寺区東高津町7番1号
      地下鉄千日前線(又は谷町線)谷 町9丁目下車(北東へ)5分
4.会費:4,500円程度(懇親会費を含む。講演のみは1,500 円)ただし学生は無料
   以上
   (福井成範 TEL090-3090-5452  fukuima@tree.odn.ne.jp

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※ Wikipediaより抜粋 ※
山田 方谷(やまだ ほうこく、文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年)6月26日)は、幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。

12. 「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだという)。この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。
方谷は反対意見を受けたもののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして、この批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている
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 何か偉人伝に載るような人ですね。名前は承知していましたが、その思想、考え方を知りませんでした。